Kazuki Saito's

“チャンプ・カー北の国へ” 日本初・公道グランプリ開催への道! 第18歩>>“運河論争”が小樽に残したもの

運河を守ろうとした、ごく普通の人々
そのスピリットは今に受け継がれている
 もし小樽に“運河論争”の歴史がなかったら、日本で初めての市街地レースをやろうとするような気概ある人々は、生まれなかったかもしれない。今年91歳になる元運河を守る会会長、峰山冨美さんと出会い、その思いはいっそう強くなった。
 「終わってから、もう20年にもなるのよ。運河に来る人のほとんどは、昔そんなことがあったなんて、誰も信じないでしょうね」と、やさしい笑顔を受かベながら、峰山さんは語り始める。とても反対派の先頭に立っていた人とは思えない。
 「昭和41年に議会で運河を埋め立てることになり、立ち上がった人がいたのね。最初はその人たちに呼ばれて行ってたんだけど、反対運動したせいで商売ができなくなったり、急死されたりで会長と事務局長の二人が一年でいなくなって、一主婦の私が会長になってしまったの。それまで120人ぐらいいたのが、8人ぐらいになってね。『女子供に何がわかる』って言われたわ」
 「行政は私たちの考えを絶対に聞こうとしない。それが一番つらかった。でも北大(北海道大学)の都市計画をやってた人が参加してくれたり、東京の新聞社に呼ばれたりして、全国から応援していただきました。運河を掃除したり運河講座を開いて小樽の歴史をみんなで勉強し、いかにこの街が運河とともに繁栄したのか学んでいったのね。そしたらこの街の素晴らしさや先輩たちの偉大さに気付き、その象徴である運河を何がなんでも守って、次の世代に引き継ぐのが我々の責任と思ったの」
 1973年にまったくの手探り状態から始まり、やがて多くの賛同者を得た峰山さんらの活動に対し、1979年に市は運河全面ではなく、半分だけを埋め立てて道路にする折衷案を捻出。同時に周辺の環境整備をして運河のたたずまいを残し、新しい景観を作ると提案した。
 しかし運河を守る会に、妥協はなかった。その後も全面保存にこだわり続けていったのだが、声もむなしく、とうとう市議会は強行採決。ついに運河の一部埋め立てが、決まってしまったのである。

筆者近況
2月9日に理事長の木下さんと事務局長の荒澤さん、市役所の木村さんと小樽警察署へ行き、ご挨拶してきました。これまでプロジェクトチームのミーティングや地域説明会に来ていただいたものの、こちらから伺ったのは初めて。どんな展開になるのか少し緊張したが、思いのほか協力的で少し拍子抜けといった感じ。次に行くのは春、道路使用許可の申請書とともに伺う予定だ。2月末にはチャンプ・カー・ジャパンの小樽事務所もできます。
(オートスポーツ誌 2006年3月2日号に掲載)