Kazuki Saito's

“チャンプ・カー北の国へ” 日本初・公道グランプリ開催への道! 第15歩>>日本で“3番目”の拠点だった小樽は

かつて小樽に開通したアメリカ式の鉄道
もうすぐチャンプ・カーがやってくる?
 1800年代終盤に入り、様々なアメリカの技術によって北海道が開拓されていく中で、小樽にはアメリカ式の鉄道がもたらされた。
 日本で3番目となったこの鉄道は、ペンシルバニア出身の鉄道建築技師ジョセフ・ユリー・クロフォードによって、小樽市手宮を基点に工事が始められる。石炭を港に運ぶための路線は、当時室蘭港へ抜ける案もあったが、様々な議論の末にクロフォードは小樽に決め、約1年の工事を経て小樽(手宮)−札幌間が開通したのは1880年11月28日。今ではわずか30分ほどで行けるところを、3時間かけて走ったという。
 日本最初の鉄道(新橋−横浜間)がイギリス式だったのに対し、初めてのアメリカ式となったこの鉄道は、機関車や客車のすべてをアメリカから輸入した。それを日本人が組み上げて整備運行し、その技術を学んだ日本の技術者達は、1895年に日本で二番目となる国産機関車、“大勝号”を小樽で製作。鉄道の開通でいっきに発展を遂げていった小樽には、同時に様々な技術も根付いていくことになった。
 数多くの優秀な職人が日本全国から集まるようになり、その中には北海道小樽グランプリ推進協議会の理事長である木下 修さんの祖父もいた。福井から移り住んだ木下さんの祖父は、当時の最先端である鉄道関連技術を身につけ、1916年に銑鉄鋳物工場を創業する。
 「今で言う自動車産業、いや航空産業的なものだったかもしれませんね。何しろ、あの頃はSLしかなかったわけですから。小樽には、そういうものを作れる技術があったということです。明治の終わりから大正、そして昭和初期にかけて、小樽が一番良かった頃だと思います」と木下さん。
 国際貿易港で鉄道もあった小樽が、北海道経済の中心を担うようになったのは、当然の成り行きだった。1893年に日本銀行の派出所ができ、三井、三菱、安田といった主要銀行が次々と開設。さながら、“北のウォール街”ともいうべき活況を呈していくのである。

筆者近況
こうして小樽の歴史を書いているせいか、また現地に行くのがとても楽しみになってくる。電車に揺られながら、この鉄道をアメリカ人と日本人が一緒になって作ったんだと思ったりすると、少しジーンときたりして。100年以上を経て、今度はアメリカのチャンプ・カーが小樽に行き、ともに市街地レースを実現するというのも、何かの縁かもしれない。どちらも動力がついた乗り物であるわけで、原点は同じような気がするのだ。
(オートスポーツ誌 2006年2月9日号に掲載)