INDY CAR

チーム・オーナーとなるはるか以前から、そのビジネスを理解していたボビー・レイホール

画像

<TWIN RING MOTEGI>
39歳だった1992年、ボビー・レイホールはドライバーとしてのキャリアを引き延ばす最善の方法は、自らボスになることだと考えていた。そうすれば解雇される心配はないからだ。そして彼はインディカー・シリーズのチーム・オーナーになった。
「もともとはチーム・オーナーになるとは思わなかったし、そんな気持ちもなかった。ところが歳をとるにつれて、自分のキャリアをコントロールしたいと考えるようになった。どうせ辞めるなら、自分がそうしたいと思ったときに辞めたい。そのための唯一の方法がチーム・オーナーになることだった。いろいろな意味でそれが次のステップになり、どうやら上手くいったようだ。ドライバーとして達成したことのうち、何が最高だったかと尋ねられたとき、自分で引退の時期を決められたことだと答えた。理解されたかどうかわからないが、それが自分にとっては自然な進路だった」とレイホールは語っている。
レイホールがチーム・オーナーとなる決意を固めたのはクラコ・チームで走った1991年の終わり。そこでチーム・オーナーのパット・パトリックと交渉し、自分のマシンのオーナーになったのだ。
「パットのチームを買い取ったわけではなく、その一部を所有することになっただけだ。会社を買い取ることとは、そのやり方は、全く中身の違うものだ。パットはシボレー・エンジンを手に入れることができなくなり、スポンサーとの契約も更新されなかったから、お互いにとって都合がよかった。そしてその後、パトリックの組織をそのまま引き継いだ。チームの名前は変わっても、中身は同じというわけだから、実質的には買い取ったようなものだった。チームがそのままあるわけだから、簡単に事が運んだ」
ドライバーとチーム・オーナー、二重の役割を果たすことになったレイホールにとって、レース以外の仕事が増えていった。
「チームの性格やレースのやり方も変わった。組織を拡充し、他チームにいた人たちを迎え入れた。レースに出場する方法も変化し、スタッフをまとめるためにずいぶん働かなければならなかった」
1998年、ボビー・レイホールは17年に渡るレース・キャリアに終止符を打った。1986年のインディ500を含む24勝を挙げたレイホールは、現在、ワークショップに50人の従業員を抱えている。レースをすることだけに集中していたドライバーが、どうすればビジネスでの成功を遂げられるのだろう。
「ビジネスの経験はいわゆる現場で積んだ。レースを始めたときから、自分で走るための資金を調達しなければならなかった。その過程で自分を売り込み、人と会い、協力してくれるよう説得する方法を学んでいった。それで営業のやり方は身につくし、必要な考え方も育ってくる。やがて財政面で何が必要かということも理解できるようになる。
何がいくらするかということではなく、運営費や資産とそれに関係するすべてのコストのことだ。いつも、レースをするためにお金を集めなければならなかった。いつもレースのビジネスとしての面を見ていたし、それにずいぶん時間を割いてきた。本当に成功したければ、どうしても必要なことだ。ビジネス・スクールへ行く必要はない」
レイホールは、バディ・ライスを擁して第88回のインディアナポリス500マイル・レースを制するなど、チーム・オーナーとしても天才的なひらめきを見せた。2005年、レイホール-レターマン・レーシングは、ライスとヴィットール・メイラ、そして注目の新人、ダニカ・パトリックを走らせている。彼はダニカがインディカー・シリーズにもたらした影響を間近に見てきた。
「間違いなくこのレース業界で今までにはなかったことだ。1980年代に私もレターマン・ショーに出演したことはあるが、SI(Sports Illustrated)や他のいろいろな雑誌の表紙を飾ったことはない。私たちがそれで恩恵を受けたかどうかはわからないが、彼女や私たちのスポンサーにとっては最高だった。そしてそれは非常に重要なことだ。そして彼女は、ほとんどの場合、そうした仕事をうまくこなしていた。彼女のそういう様を見るのはすばらしかったし、彼女にできると思っていたことを、彼女が実際にやり遂げ、次の段階をすすむことができたのはとてもうれしい。そのとおりになって、大変喜んでいる」