Hiroyuki Saito

アメリカから想う故郷

東北関東大震災から4週間が経ちました。被災地となった宮城県多賀城市の実家、仙台市に住む姉の家でも先週にはライフラインが復旧し、両親もやっと自宅で入浴することができたということでした。ただ、塩釜市に住むもう一人の姉が嫁いだ家では薬局店を営んでおり、津波で店が床上浸水したため、その復旧作業が大変だということでした。

5時間も並んで購入していたガソリンもやっと並ばずに購入できるようになったとのことで、生活面においての不自由は解消されてきているようです。ただ、いまだに安否の確認ができないご家族がいる方々、そして震災で家族と住む場所を一瞬にして奪われ、避難所で生活されている方々のことを思うと、自分の家族のことだけを素直に喜ぶことができません。

地震で発生した大津波は、あまりにも大きな爪あとを東北関東の太平洋湾岸沿いに住む人たちに残していきました。実家に居た頃によく買い物に行っていたイオン多賀城店の駐車場から撮影されていた津波の映像を見ましたが、押し寄せてくる津波が駐車している車を押し流し、どんどん水位を上げていく様子は本当に胸がえぐられていく光景でした。
 

また、宮城県仙台市から多賀城市を通過し、太平洋湾岸を北上して青森県青森市まで続く国道45号線が近所を通っているのですが、仙台港から約1.5キロ以上離れていたにもかかわらず津波が到達し、さらに内陸まで津波の被害がありました。僕自身、港からの距離感を知っていただけに、まさかここまで津波が押し寄せていたとは思ってもいなかったし、そして若かりし頃に過ごした地域が津波の後、廃墟のようになってしまった光景を映像で見たとき、言葉を失うしかありませんでした。

学生の頃からよく通っていたボーリング場、なけなしのバイト代を握り締めて通ったパチンコ店。「カラオケに行くべ!」となればよく集まったお決まりのカラオケ店。友達とたまにはハンバーグが食べたいなって向かった“びっくりドンキー”。初めてアメリカに行った1996年、帰国後にふっとアメリカのステーキを思い出して食べに行った“ステーキ宮”など、45号線沿いにあった思いでの場所は、形は残っているものの魂をごっそり抜き取られたような姿となっていました。

最初は自転車だった移動の足が原付バイクになり、そして自動車で何度も通ったその道路には、自らが望まない姿となった形の車が散乱。折り重った状態で、身動きが取れなくなったまま放置されています。その変わり果てた光景は、本当にこれが僕の知っている故郷なのかと疑わずにはいられなかったのですが、これが現実で、納得しなければならないんだと言い聞かせながら10分弱の映像を見続けました。

すでに4週間が経ちましたが、45号線のかなりの部分に津波の爪あとが残っているそうです。渡米してから映像でしか確認できない現実に歯がゆい思いではありますが、離れていてもできることを探しつつ、これから復活する地元の姿をしっかりと見つめていきたいと思います。
がんばっぺ宮城、東北!