ライアン・ブリスコーが念願の初優勝を飾ったミルウォーキー。予選11番手からの走りは見事で、初優勝に相応しい素晴らしいレースとなりました。ここまで紆余曲折のあったブリスコーの優勝に、心から拍手を送りたいです。
まさかまさかのブリスコーの優勝となったIRL第6戦ミルウォーキーでしたが、正直僕は序盤のブリスコーの走りを見て、「ひょっとしたら?」と思っていました。それほど、ブリスコーのスピードは他を圧倒していたからです。予選こそ11番手と苦戦したものの、「ロングランの走りは本当に良くて、走れば走るほど速くなっていった」とレース後に語っていた通り、レースではスタートから驚異的なスピードでばっさばっさと前車をぶち抜いていきました。1マイルオーバルのミルウォーキーはターンのバンク角も4度と小さいことからパッシングが非常に難しいオーバルとしても知られているのですが、そんなことはお構いなしとばかりにアクセルを緩めることのなかったブリスコー。61周目にはEJビソを抜いて早くも6番手に上がると、117周目にトニー・カナーンを、119周目にはダン・ウェルドンを交わして4番手にまで躍進します。フロント・ロウ・スタートでレースを大いに沸かせたグラハム・レイホールの単独クラッシュにより3番手へ浮上し、161周目には同僚エリオ・カストロネベスをもパスして2番手に。こうなると誰も手がつけられず、勢いそのままに177周目にはここまでレースを制圧していたスコット・ディクソンをもパスし、ついにトップにまで上り詰めたのです。正直言って、ここまではブリスコーの天性のスピードを知っていればある程度予想できたものでしたが、成長を見せたのがこの後のディクソンとの一騎打ちでした。
最後のピットストップを終えてからは、「逃げるブリスコー、追うディクソン」という構図で、手に汗握る素晴らしいバトルが展開されていきました。ディクソンが、「今まで一番楽しいレースだった」と語るほどで、ディクソンはポイント獲得など関係ないと思わせるほど一心不乱にブリスコーを追い続けました。今までのブリスコーなら、恐らく追われる者のプレッシャーにつぶされてどこかでミスを犯していたはずです。しかし、この日のブリスコーは、「クルマには絶対に自信があった」と冷静に自分の状況を分析する余裕があり、最後までその冷静さが崩れることはありませんでした。最後は残り3周で目の前でマルチクラッシュが起き「やっぱりかぁ」と思ったものの、これも冷静に交わしてそのままチェッカー。インディカー25戦目にして念願の初優勝を飾ったのです。派手なことが苦手な典型的なオーストラリアの若者が、ビクトリーレーンで喜びを爆発させていた姿は本当に印象的でした。それはそうでしょう。何せブリスコーがここまでたどり着くには、本当に浮き沈みの激しいドライバー・キャリアがあったからです。
21才でトヨタ・ドライバーズ・プログラムの第一期生として契約したブリスコーの初期のドライバー・キャリアは、トヨタと共にありました。トヨタがF1に参戦を開始した2002年に始まった同プログラム最初の契約ドライバーとなったブリスコーは、その後トヨタF1のテスト・ドライバーに就き、将来のF1候補生としてエリート教育を受けてきたのです。並行して参戦していたユーロF3では2003年にチャンピオンを獲得すると、翌年にはトヨタF1のサードドライバーとしてグランプリ金曜日に走行し、セットアップを務めるなど順風満帆なドライバー人生を送ってきました。しかし、転機は2005年に訪れました。じつは、同年にトヨタ・エンジンの供給が決まっていたジョーダン・グランプリからF1参戦の話があったというのです。しかし「優勝できないチームからレースに出るのは僕のスタイルじゃあない」とこの話を断り、同年に戦いの場をアメリカに移して、当時トヨタ・エンジンで戦っていたチップ・ガナッシ・レーシングの3台目としてインディカー・シリーズに参戦したのです。筆者ごとで恐縮ですが、じつは同年にとあるF1雑誌の仕事で、ブリスコーのドライバーズ・コラムの担当をしていたことから、毎戦のようにブリスコーとは話をしていたので、筆者にとっては非常に馴染みのあるドライバーだったのです。F1の話もそのときに聞いて、いかにもブリスコーらしいなぁと当時は思ったものです。ですが、当時のインディカーでのトヨタ・エンジンは戦闘力が低下しており、加えてブリスコーもオーバルレースの経験がなかったことから毎戦のようにクラッシュを重ね、なかなか結果が出すことができませんでした。そして最終戦のシカゴでは宙を舞うほどの大クラッシュを経験。大怪我こそなかったものの、その後トヨタとは袂を分かち、順風満帆に見えたドライバー人生が一転してしまったのです。
その後はグランダム、A1グランプリなどを渡り歩き、先の見えない厳しい状況になっていたブリスコーを救ったのが、ロジャー・ペンスキーでした。ブリスコーの才能を信じ、2007年から同チームのアメリカン・ル・マン・シリーズのプログラムに参加させた結果、シーズン3勝をマーク。同年限りでNASCARに転向したサム・ホーニッシュJrの後釜として、インディカーシリーズの正ドライバーとして契約したのです。そして迎えた6戦目のミルウォーキーで見せた見事な走り。シーズン前、「オープンホイールレースはいつでも僕の中で一番プライオリティの高いものだった。スポーツカーで我慢の走りを学んだので、今年は今までとは違う自分の走りが見せられると思う」と筆者に語っていた通りの走りを、ミルウォーキーで見せてくれました。今までの“回り道”は決して無駄ではなかったことをこの優勝で証明したと言えるのではないでしょうか。すでにベテランの域に達したカストロネベスに往年の勢いが見えない今、これからは北米オープンホイールの名門チーム、ペンスキーの顔として、さらに優勝を重ねていってくれることでしょう。それにしても、ブリスコーには本当に心からおめでとうと言いたいです。