Kazuki Saito's

“チャンプ・カー北の国へ” 日本初・公道グランプリ開催への道! 第19歩>>小樽の街に新しいシンボルを!

「守られた運河が観光客を集めたように
公道レースを実現しなければダメになる」
 運河の一部埋め立て決定に対してより多くの市民が反対運動に参加するようになり、全国から約10万人の署名を集めた小樽運河を守る会だったが、1984年9月、市は本格的な工事を開始。会長の峰山冨美さんは、「期待に応えられず、申し訳ありません」と言って辞任した。
 「みなさんから『運河が残って良かったね』って言われたけど、負けたんですよ。完全に残せなかったんですもの。私は勝ったとは思っていない」とその無念さを語る峰山さん。「でも、ふつうの市民が一体となって、本気で小樽の街を考えることができたほうが、もっと大事なことだと思います。運河を通してこの街の先輩たちのすばらしい働きを語ったり、こういう市民の生き方がほんとうの街づくりなんだと。そういうことをみんなで話し合えたから、残念だとは思ってない。そっちのほうがずっと意味がある」
 1986年5月、運河の半分を埋め立てて片側3車線の道道小樽臨港線が完成。建設省のシンボル・ロード事業の国内第1号にも認定され、運河沿いに石造りの散策路やブロンズのガス灯なども整備される。こうして10年に及んだ運河論争は終息を迎えたのだが、長期間にわたった市民運動によって、小樽の名はいつの間にか日本全国へと知れ渡っていた。バブル経済と相まって観光客がいっきに押し寄せるようになり、小樽は国内でも屈指の観光地へと変貌したのである。
 「運河論争があったから、いまの小樽があると思いますね。なかったらここまで観光化は進まなかったでしょう。埋め立てられていたら、こんなに人は来なかった」と小樽グランプリ推進協議会理事長、木下 修さんは断言する。「峰山さんの信念はすごい。我々も、グランプリをやらなければ小樽がダメになると信じていますが、最初は誰も相手にしてくれなかったわけで、大変だった。でも、峰山さんはもっと辛かったと思います。ああいう先輩がいたからこそ、『我々もなにかやらなければ』って思うんです。『あんたたちもがんばんなさいよ』ってよく言われますしね。ほんとうに素晴らしい人です」
 

筆者近況
全員の努力が実り、4月には警察へ道路使用許可の申請を行う予定です。警察から言われていた「安全性、地域性、公益性」をクリアできる目処が、やっとついてきたんですね。近々協議会はチャンプ・カーと開催に向けてのMOU(覚書)も交わす予定で、開幕戦ロング・ビーチでは現状をメディアに報告します。小樽のウリは日本初の市街地レースですが、もうひとつ。なんと豪華客船からも観戦できるのですよ!
(オートスポーツ誌 2006年3月9日号に掲載)