Kazuki Saito's

“チャンプ・カー北の国へ” 日本初・公道グランプリ開催への道! 第17歩>>小樽を二分した“運河論争”

もはや運河は無用の長物か、文化遺産か
それをめぐる議論が10年以上続けられた
 我々が設定したコースの候補のひとつに、小樽運河周辺がある。昨年9月に小樽を訪れたチャンプ・カーのコースデザイナー、マーティン・セイクさんが「可能な限り、その街の特徴を活かしたデザインにするべきです。テレビを通して世界中の人が見るのですから、小樽らしいところがベストですね」と言い、小樽のシンボルともいうべき運河周辺も候補に選ばれた。
 ふつう運河というと、陸地を掘った水路を思い浮かべがちだが、小樽の場合は海岸線に沿って沖合を埋め立てたものであり、港の繁栄とともに1914年(大正3年)着工。9年の歳月を要し、長さ1314m、幅40mの運河が完成したのは1923年のことだった。新しくできた土地にも石造りの倉庫が並び、貨物は湾内に停泊した大型船からハシケ(小型船)へと載せかえられ、運河を通って倉庫へと運搬。この年の入港船は6000隻以上に達し、400ものハシケが運河を行き交って港は5000人以上の荷役人でひしめいた。
 しかし1937年(昭和12年)の第一埠頭完成以後、埋め立て地には次々と埠頭ができ、大型船から直に荷揚げされて陸上の運搬が進むようになると、運河の必要性が薄らいでいく。いらなくなったハシケは放置されて運河に停泊したまま廃船と化し、運河そのものも汚染によって悪臭を放ち、周辺の市民は苛立ちはじめた。
 ついにはモータリゼーションとともに中心部が混雑するようになり、港の流通機能をさらに高めたい市は、1966年に運河を埋め立てて道路建設を決定する。小樽繁栄の象徴ともいうべき、運河の消滅。工事開始とともに倉庫が取り壊されていく様を見た市民のひとり、峯山冨美さんは我慢できなかった。「運河と石造倉庫群はかけがえのない文化遺産」と訴え、1973年に“小樽運河を守る会”を結成。反対派と推進派に分かれて市が完全に二分するほどの、激しい論争へと発展していく。
 すでに“斜陽の街”となっていた小樽で渦巻いた“運河論争”はやがて全国へと知れ渡るようになり、10年ものあいだ議論が続けられたのである。

筆者近況
2月8日、インディ・ジャパン開催発表会の帰り道。ツインリンクもてぎでチャンプ・カーが初めて走ってから、ちょうど10年目となることにふと気が付いた。1997年8月のオープニングでジミー・バッサーがドライブし、11月にはチームを招いて事前テスト。あれからもう10年である。すごく感慨深いものがあるが、今年の秋にはチャンプ・カーを日本に呼んで、小樽でデモンストレーションを行いたいと考えている。やっぱりバッサーかな?
(オートスポーツ誌 2006年2月23日号に掲載)