Interview

■特別インタビューVol.1: 元ホンダCARTプロジェクトリーダー、朝香さんが語るツインリンクもてぎの10年

CARTで始まった日本初の本格アメリカン・オーバル・レース。その最初の5年間を語る上で、絶対に欠かすことのできない人が、当時現場でホンダを率いていた朝香充弘さんだ。元ホンダCARTプロジェクト・リーダーであり、HPD(ホンダ・パフォーマンス・デベロップメント)の副社長として、ホンダのアメリカン・オープン・ホイール・レースの道を切り開いた朝香さん。実際に現場で指揮をとって、もてぎを戦ったのはCART時代の5年間だが、リタイアしたあとも毎年ツインリンクもてぎへ足を運んでいる。10回目を迎えるレースを前に、朝香さんが奮闘していた日本のレースについて、語っていただいた。(インタビュアー:齊藤和記 まとめ:川合啓太)

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Q: ツインリンクもてぎでレースをやるようになって、もう10年になりますね。

「俺がやってたのは最初の5年間だからね。4つのメーカーの競争が激しかった頃で、そういう面白さを日本のファンに楽しんでもらえたと思う。ワンメイクになった今はドライバーのバトルが面白いけど、あの頃はホンダが戦うという意味での面白さがあったんじゃないかな」

Q: 日本で戦うということは、朝香さんの中でも大きなウエイトを占めていたと思いますが?

「みんなが言うほど、ウエイトは高くなかったよ。いつも言うように、シリーズの総合チャンピオンが欲しかったわけだから。そういう意味で、もてぎはシリーズの20分の1、19分の1だった。(もてぎに)すごいウエイトを置いていると、負けたときに後でガクッときてしまうけど、『もてぎは20分の1のレースで、とにかく次のレースだ』というのがあったから、そんなに気落ちしなかった。それで、その後にどんどん勝ってチャンピオンを獲ると。
だから、みんなが思うほど『もてぎだけは』と言うのがなかったんだよ。F1でいえば鈴鹿はシリーズの最後の方で、エンジンも鈴鹿スペシャルと言うのがあるけど、もてぎはどちらかというと始めのほうでしょ。もてぎで『どうしても』という思いもあるけど、それより年間を通してどう戦っていくかというのが先だったね。確かに他のイベントよりはウエイトは大きかったけど、勝負についてはそこまで大きなウエイトは占めてなかったな。こっちは全部勝つつもりでレースやってんだからさ」

Q: でも、もてぎに向かって開発したことで、その後のシーズンが有利に運んだということもあると思います。

「そう、もてぎに向かってワン・ステップを置いていたのは確かだね。そのステップに向かってもてぎスペシャルを作って、次に500マイル用のエンジンを作るというステップがある。その最初のステップにはなっていたし、もてぎがなかったら、次には繋がらなかっただろうね。ステップがなかったら、力の入れ方も違っていたと思う。だんだんと盛り上がっていく感じだね」

Q: もてぎで勝てなかったことが、絶対にチャンピオンをとるぞという気持ちにさせたわけですね。

「そうそう。だから(もてぎに)ウエイトをつけていたら、ガクっとくるほうが大きいんだろうけど、そうではなかったよね。初年度のインディ500はガクッと来ちゃってどうしようもなかった(1994年のインディ500で、決勝に進出できず)。そういう意味で、もてぎはまだ後があるということだったから、負けたというのはそれほどショックと言うか、落ち込みはなかったよ。だからもてぎで負けても、強いことを言って帰れたんだよ(笑)。負け惜しみ言いながらね(笑)」

Q: もてぎのコースについてお聞きしますが、朝香さんが最初にコースをご覧になったのはいつだったのでしょう?

「もてぎでの開催が発表される前、まだ作っている最中だった。日本にCARTを持ってくるかどうかのときで、当時CARTのCEOだったアンドリュー・クレイグと一緒に、ヘリコプターでもてぎの山を回ったよ。まだ山を削っている段階で、『この山を八つ全部買って、ここを埋めてて平らにするんだ』とか言って見せたんだ。彼はビックリしていたね。それでヘリポートに降りて現場へ行くと、ものすごくタイヤの大きなトラックを何台も見たりして、彼は『これは本気でやっている』というのがわかったわけだ。話だけじゃないと。
IRLのトニー・ジョージがマイアミにコースを作るときなんて、パンパンパンと作っちゃって、『ディズニーランドでレースなんか、ほんとうにできるのか?』とみんなが疑っていたでしょ。そういう疑問はなかったわけだよ、実際に山を削って作ってるんだから。彼はすごいと思ったはずだよ。それで心が動いたと思う。その次に行ったのは、出来上がった1996年のときだな。ジミー(バッサー)たちを連れて行ったときね」

Q: その時に初めて全体像を見渡したのですね?

「そうだね。その前にも何度か行ってたけど、地盤がまっすぐになるのか心配で、何回も聞いたよ。走っているうちに、でこぼこにならないのかとか・・・。まあ、いろいろ説明してくれたから『へ〜』なんて思ったけど」

Q: ホンダがオーバルを作ると決まった時は、どう思いましたか?

「それは成り行きだから、不思議はなかったよ。もともと、もてぎの計画の中にはオーバルがなかったわけだよね。オーバルを作ることに反対もあったけど、計画がつぶれることはないと思った。やるだろうとね」

Q: オーバルの建設が決まった1994年はホンダがCARTに参戦したばかりで、レースのことで頭がいっぱいだったと思うのですが、その時はもう日本でレースをやるんだということを意識されていましたか?

「1994年はまだないね。勝って、チャンピオンを獲ったあたりくらいからだよ。1996年の開催が決まったときには『いよいよだな』と思ったね」

Q: 1998年のツインリンクもてぎでの初レースは、どんな気持ちで挑んだのでしょうか?

「1996年にチャンピオンを獲って以来、勝つことができる時期でもあったから、『これは勝つしかないな』と思った。それが日本の中にオーバル・レースを広めることになるし、宣伝にもなる。日本のホンダの役員も納得するしね。勝つってことが、一番わかりやすりわけだよ。それはどのレースもそうなんだけど『勝つしかない』、この一言だったよね。
そういう思いがみんなにもあったのかもしれないけど、レース日の朝にエンジンが2台くらい壊れて載せ換えたりして、バタバタしたんだ。そのときは『大変だこれは』なんて思ったけど、今になって考えてみると、みんな思い込みが過ぎて締めるところを締めすぎたり、何かやろうというところを忘れたりしたんじゃないかな。ここぞと言うときにこそ、『えっ』と思うくらいの落とし穴があったわけだ。あの時はどうしてそんなにエンジンが壊れるのかという理由を、考える余裕もなかったけどね」

Q: 他のレースとは違って、日本という環境は独特の雰囲気でしたね。

「そう。予選はある程度実力で勝てるけど、レースは長いから何があるかわからない。一種水物だからという考えはあるんだけども、ここだけはそんなことがないようにと、チェック項目が100あるとすれば、一つ一つ力をいれてやっていたはずなのに、本番になると何かが違ったね。『ウチが一番テストをやった。だから間違いない。でもレースは水物だからわからないぞ』と思うその前に、朝のウォーミング・アップでエンジンが壊れちゃうんだから(笑)。『どうなってるんだ、これは』なんて思ったよ。
もてぎのレースではないけど、1996年のUS500で12台の多重衝突があって、アンドレ(リベイロ)に載せるエンジンがなくなって、400マイル以上走ったエンジンしか残っていなかったことがあったでしょ。それでもレースを走り切っちゃったわけだよ。だからある程度、念を入れるんだ(笑)。カール・ハースがレース前にマシンをさすったりするでしょ。あれだ(笑)。自分ではコントロールできない部分だから、余計にそう思う。いつの頃からか、性能を上げるだけでは勝てるものじゃないと思い始めて、お正月には神社で勝負運のお守りを買ってドライバーに渡していたんだよ。最初はアレックス(ザナルディ)だけだったんだけど、そのうちみんなにあげるようになっちゃって。価値が落ちたね(笑)」

Q: 日本では初めてだっただけに、レースを戦う以外でもご苦労されてましたね。

「どうやって日本の人たちにオーバル・レースの面白さを知ってもらうか、というのが気になっていたよ。だから広報のイベントなんかには、できるだけ出て話をしたね。あの当時はオーバルと言う言葉すら知らない人たちばかりだったから。そして“カート”といえば“ゴーカート”だしさ(笑)。
あとは確かに、雑用には気がいっていたよね。アメリカ人が大勢来て、もてぎのコースやレースのやり方をちゃんと評価してくれるのだろうかというのがあった。最初はチームのメンバーに、物を移動するための車を貸したり、通訳をつけたりね。俺が手配したわけじゃないけど、もてぎの土屋さんや高桑さんと色々な話をする中で、どうすればいいかというアドバイスをしただけだよ。まぁ、高桑さんは全米を歩き回って、NASCARのコースだとか色んなコースを見て、コースについては良く知っているし、イベントの取扱いなんかもプロだから、そういうところは俺なんかより全然知っていたけどね。
だけど、レースを日本でそのままできるのか、アメリカ人に違和感をもたれないかという心配はあった。例えば、研究所にドライバーを連れて行くとサンドイッチなんかが出るんだけど、日本のサンドイッチは食パンを小さく切って、パックに入れて出すじゃない。ああいうのは評判が悪いのを知っていたから、やめるように言ってたんだよ。HPDにアメリカ人のジャーナリストを連れて行ったとき、そういうことがあって気がついていたからね」

Q: ドライバーは日本の研究所の見学を楽しんでいたようですね。

「研究所の見学はみんな喜んでいたね。こちらから(研究所に)色々リクエストをだして、できるだけ観られるようにしていたんだけど、たとえばエンジン・ダイナモのところにドライバーを連れて行って、シミュレーションでエンジンを回す。そのエンジン音を聞かせて、『どこのコースで、ドライバーは誰だと思う』ってみんなに聞くんだよ。ドライバーはそれぞれにクセがあるからね。みんなが『第一コーナーがこうだから』とか『ストレートが長くて』とかいいながら考える。あれはポートランドだったかな、ドライバーはジル(ド・フェラン)だった。そうしたらジルが『オレのノウハウを出さないでくれよ』って言ってね。運転の仕方がバレちゃうって(笑)。あるときは、リビルドしたRA301をコレクション・ホールに出す前に見れるようにしたんだけど、自分達のCARTエンジンを見るんじゃなくて、そっちのほうをみんな見ていたよ(笑)」

Q: では、過去9レースの中で、一番印象に残るレースはいつですか?

「やっぱりダン・ウエルドンが勝ったときだろうね。2004年。勝った時はうれしかったよ。もてぎとしては、あれが一番印象深い。あとはみんな失敗だったからさ(笑)。毎年、毎年、失敗だったから。CART最後の年の2002年は、自分が責任者として臨んだ最後のレースだったけど、最後まで勝てなかったからレースが終わった翌日に丸坊主にしたんだ。口で言うのは言い訳がましいから、態度で示したかった。でも、連休明けに研究所に行ったら何人かしかわからなかったね、本人を目の前にしたら驚けないんだろうな。わからない人はどうしたんですかと聞くけど、わかっている人は聞けないんだ。これはこれで面白い反応だった。それ以来、短い髪のままなんだよ。メンテナンスが楽だからね(笑)」

Q: やはり2002年は一番辛かった年になりますか?

「そうだね。2002年は辛かった。あの年は俺の最後の年で、一番大きかったのはレイナードの倒産。それでローラに換えなくてはいけなかった。それでも一生懸命やったけど、壊れるってわかっていたホイールベアリングが手に入らなくてね。もてぎではポール・トレイシーのローラが壊れるのを、わかっていて走ってたんだから。この年に突然解禁されたトラクション・コントロールの開発にも遅れて、2002年はついてない年というか、一番苦しい時期だったね。レイナードの倒産が、ほんとうに一番大きかった」

Q: その2002年のもてぎでは、ドライバーが朝香さんの写真をマシンに貼ってレースに出ていましたね。

「そう。でもほんとうは秘密だったんだよ。もてぎのレースをやるときは、かならず前の晩にドライバー全員と食事をしていた。そこがドライバー全員に会えるチャンスで、今年は最後だから『明日は勝てよ』と言う意味で、一番のポーズをとった写真をドライバー全員分焼いておいた。それでドライバーに、『あしたは頭がクールにならなきゃいけないから、ヘルメットの中に入れて走りなさい』といって一枚ずつ渡したんだ。ヘルメットの中だから誰にもばれないと思っていたんだけど、翌朝行って見たら『朝香さん、いい写真がマシンに貼ってありますよ』って言われて、見たらダリオ(フランキッティ)がステアリングのところに貼っていた。ポール(トレイシー)はエンジンのところに挟んでいて、みんなが色んなところに貼ってあって、いっぺんにばれちゃったんだよ。あれは話題にはなったよね。ESPNの放送ではダリオのマシンにカメラがついていて、アナウンサーが『ステアリングの真ん中に写真が貼ってある』と。『あれは奥さんのアシュレイ・ジャッドじゃないか』『いやあれは男だから違うな・・・』とかそういう放送していたよ。それでも勝てなかった(笑)。まさかばれるとは思っていなかったから渡したんだけど、ばれちゃった。みんなすぐに話しちゃうタイプだったね」

Q: それでは最後にファンのみなさんへのメッセージをお願いします。

「やっぱり日本のレースを盛り上げて欲しいですね。レースが面白くないなら、どこが悪いか、面白くないところをぜひ伝えて欲しい。そして何につけてもまずレースを観て欲しい。レースを観れる眼にならなきゃいけないから、どんどんレースを観て欲しいね。これまで、もてぎで楽しんできたファンのみなさんには、面白さをもっと人に伝えて欲しいです。もっともっと友達の輪を広げて、オーバルの魅力を知ってもらいたい。とにかくロード・コースとオーバルの違いはその難しさにあるわけで、ドライバーにとっても、オーナーやエンジニアにとっても難しい。いつもオーバルはエンジニアのレースだって言うんだけど、エンジニアも含めて全員の力がないと勝てない。それくらい難しいところがあるんで、その難しさがわかれば、オーバルの楽しさかがわかる。そういうのをもっともっと伝えて、もっともっと盛り上がってくれると良いですね」

●インタビューを終えて
リタイアされてからも何度かお会いして話はしていましたが、仕事としてお話を聞いたのは、2004年にホンダがツインリンクもてぎで初優勝して以来のことでした。相変わらずの朝香節は健在で、その明朗な話しぶりに、久しぶりに引き込まれました。1994年から2002年まで毎レース現場で話を聞いていたので、とても懐かしかったですね。

みなさんご存知のように、ツインリンクもてぎはホンダが作ったコースですが、CART時代、そこだけはなぜかホンダが勝てませんでした。シリーズのタイトルを最優先していたホンダは、朝香さんが言うとおり全勝を狙っていたわけで、それだけに「ウエイトは高くなかった」ということなんでしょう。しかし誰も知らないオーバルのレースを日本で広め、周囲の理解を得るためには「勝つしかない」という使命を持って戦っていたわけで、そこには様々な葛藤があったのだと今回改めて思いました。

165レースに参戦して65勝、マニュファクチャラーズ・タイトル4回、ドライバーズ・タイトル6回と圧倒的な勝利を収めたホンダ。不思議なもので、もうひとつの地元と言って良い、アメリカン・ホンダのすぐ近くにあるロング・ビーチのレースでは7連勝もしています。朝香さんの思いとは裏腹に、そのホンダがツインリンクもてぎで勝てなかったことによって、逆にこのレースの難しさが日本で強く認識されることになったのではないでしょうか。

日本が誇る唯一のアメリカン・オーバルで、今年10年目のレースを迎えます。今はワンメイクとなっていますが、かつてこのツインリンクもてぎで激しいエンジン・バトルが繰り広げられ、様々な思いが交錯してきた時代がありました。そういった時を経てきたからこそ、今があるのだと思います。始まった当初は誰もが、「オーバルって簡単そう!」って言ってましたが、最近はそんなことを耳にすることがほとんどなくなりました。

朝香さんが言うとおり、ワンメイクとなってもチームの総合力が重要なレースであるのは間違いなく、その勝者をこの目で見ることは、非常に価値のあることです。最後のメッセージにもありましたが、ファンのみなさんからも、ぜひその魅力を多くの人に伝えていただけると、いいですね。(齊藤和記)