[喜びかた -インディカー(もてぎ10周年)-]
ツインリンクもてぎでオープンホイールオーバルレースが5回目の開催を迎えた2002年、CARTは少々混乱した状態でした。まずそれまでくすぶっていた様々な問題がもつれ、2001年の最終戦で2002年末にホンダが撤退することが決定されたこと。またシャシーコンストラクターのレイナードが倒産したことや、トヨタが2003年からはNA3.5リッター(IRLと同規格)のみ供給可能と発表したこと。そして名門ペンスキーがIRLに移るという衝撃のニュースもありました。
この年のもてぎではターン1でレース開始を待っていたのですが、近くのファンから「撤退はどうなったの?」という声が漏れ、周囲にその話題が広がるのを感じました(いい話題もそうでない話題も一人がしゃべると波紋のように話題が広がるのがライブ観戦の醍醐味ですよね!)。
さてレースはというと、レイナード倒産の影響とローラの熟成により、レイナード+ホンダ+ファイアストン(ブリヂストン)が最良のパッケージではなくなったのもこの年の特徴でした。ローラ優勢が囁かれ、ホンダ勢もKOOLの2台、マイケル、フェルナンデスの2台が急きょローラを用意したものの、マシンはトラブルに見舞われる状態。いっぽうでトヨタ勢は前年ローラで苦労した経験を生かし始めていました。そして実際もてぎで勝利を手にしたのはトヨタのリーディングチームのひとつに在籍する、チップ・ガナッシのブルーノ・ジュンケイラでした。
チップ・ガナッシには1996〜1998年はザナルディ、1999〜2000年モントーヤという、センセーショナルなドライビングを披露するドライバーが在籍していました。モントーヤがF1に戻ったのち、モントーヤと同様の“国際F3000王者”の肩書をひっさげてやってきたのがブルーノ・ジュンケイラでした。初年度からモントーヤと同様の活躍を期待されたものの、開発のキーマンだったジミー・バッサーは移籍してしまい、チームメイトは同年国際F3000で2位だったニコラ・ミナシアンとのルーキーコンビとなり、少々厳しいデビューイヤーとなりました。しかし初年度こそ苦しんだものの、徐々にその実力を発揮し始め、とうとう掴んだオーバル初勝利がもてぎでの勝利でした。
ジュンケイラのインタビューやアクションは先輩ドライバーのカナーンやエリオに比べて「まじめ」な印象。またドライビングもどちらかというと巧さの光る職人タイプで、あまり印象に残りにくいタイプのドライバーなのかもしれません。しかしながらその実力は高く、2007年もChampcarでシートを得ています。今では困ったときに呼ばれ、実力を発揮するシブーいドライバーになっています。