INDY CAR

元HPD社長、和田康裕さんが語るダン・ウェルドン

早いもので、昨年の最終戦ラス・ベガスでダン・ウェルドンが亡くなってから、ちょうど1年を迎えました。日本のファンにとって、ダンといえばやはり2004年インディ・ジャパンで初優勝した時のシーンが、最も印象に残っているのではないでしょうか。
 

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かつてHPD(ホンダ・パフォーマンス・デベロップメント)社長として、ホンダのインディカーを率いていた和田康裕さんに、その当時の様子やダンとの思い出をたくさん語っていただきましたので、ぜひご覧ください。
 

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Q 一緒に戦い始めた2003年のダンはどうでしたか
ダンとの思い出というと、やっぱりもてぎだよね。僕は現場を2003年と2004年しかやっていないけど、2003年はちょうどCARTからインディに変わった直後だった。うちは初年度で、AGR(アンドレッティ・グリーン・レーシング)がワークス・チーム。他はレイホール(レターマン・レーシング)1台と、日本勢(スーパーアグリ・フェルナンデス)とちょっとしかなかったから、2003年はボロ負けしたんだよね。
 
確かダリオ(フランキッティ)がイギリスのバイク事故で骨を折って、ダンはそのリリーフで、もてぎに出たんだよ。彼はその前の年パンサーにいたじゃない。なぜAGRに入ったのか、その経緯は忘れちゃったんだけど、マイケルがインディ500で引退することもあって、ブライアン(ハータ)と彼がシートを見つけてドライバーになったんだ。
 
最初は彼もフレッシュマンで、僕らもお付き合いは初めてだったけど、イギリス人だから解りやすかったし、彼のジョークはちょっとアメリカ人と違って、一番最年少だからトニー(カナーン)とかブライアンがみんな坊や扱いして、いじりまくってね(笑)。いい意味で、かわいがられていたよ。ブライアンなんて弟みたいだって言ってた。
 

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Q 2004年はホンダに、もてぎの初優勝をもたらしましたね
僕にとってもある意味、2004年が本格的な最初の年だから、そういう年にもてぎで一緒に勝てたのは、うれしかった。レースの展開からいって、ドタバタしなかったよね。トニーも追いつけないみたいだったし。スタートしてから安定して走っていた。逆転されるような展開もなく、最後は順当に勝てたような感じがしたね(200周中計192周リードして優勝)。
 
ダンはオーバルがうまいんだよ。クルマも良くできていた。スポンサーのジム・ビームがフルでついた年で、そういう意味じゃダンにとっても、最初の勝利はうれしかっただろうね。あれから彼も、なんとなく僕の中では一人前になったというか、AGR の中でもほんとうの一人前になっていった。
 

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レース後はホンダのホスピタリティで盛り上がったけど、あそこで僕はもう半分べろんべろんだった(笑)。ケーキが飛んだり、シャンパンやビールをみんなでかけあってね。さすがにあの日は彼らも六本木に行かなかったんじゃないかな(笑)。ああいうところは、アメリカのレースは楽しいよね。他のシリーズだって勝ったら騒ぐけど、インディはもっとあっけらかんとしてる。
 
インディジャパンで初優勝したドライバーがいなくなったのは、寂しいですね。昨年のもてぎに来てくれてたら、よかったのに・・・。
 
Q あらためて2004年のインディ・ジャパンでの勝因を教えてください
あの年はスピードを落とすためにエア・ボックスに穴を開けるルールになって、インディ500から排気量が3リッターになることが決まっていた。第2戦のフェニックスで勝って、次のもてぎは3.5リッターの最後のレースで、インディ500からは3リッターだったから、ほんとうに色々なことがあったんですよ、あの年は。けっこう忙しかった。
 
とにかく、これまでと同じことをやっても勝てないんだから、なんか違うことをやろうってことで、何が悪かったのかチームのみんなに聞いて歩いたんだよね。そうしたら、地元で勝ちたいっていうホンダの気持ちは解るけど、前の晩まで徹夜してレースに勝てるかっていう声がだんだん聞こえてきた。
 
CARTの頃は栃木(研究所)でぎりぎりまで開発していた新しいエンジンを、レース前日の夜中とか明け方に乗せ換えていたこともあった。そんなことをやっているとメカニックは疲れるし、エンジニアだってクルマいじっちゃうから嫌がるし、それでほんとうに勝てるの? っていう議論をずいぶんした。いずれにしろ、当時と違ってエンジンはアメリカから送るから、同じことはできないんだけど、とにかくレース前にばたばたするのはやめようって。
 

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でもルール変更に合わせるために、やんなきゃいけない開発はたくさんあった。もてぎは3.5リッターの最後のレースだから3.5のタマ(対策)を予定どおり、もてぎの前の晩じゃなくて、第2戦フェニックスまでには入れようってことで全部前に倒した。とにかくフェニックスで勝負をつけるようにして、そこで仕上がっていたら悠々と帰れるから、そうしようって。
 
結局全部は間に合わなかったけど、フェニックス勝てたのはものすごく良かった。あそこはストレートが短い(1マイル・オーバル)からそんなにパワーの差は露骨に解んないけど、フェニックスで何となく(もてぎで)勝てる感じは見えてきた。燃費、パワーも含めてね。まだ残ってる宿題はもてぎに送り出すまでに、全部終わらせようってことで、それまではどんどん徹夜してもいいけど、とにかくもてぎに行ったらばたばたしない。ちゃんと、粛々と勝とうって。
 
それはチームもよーく解ってくれてね。彼らも慌てないで済むから、クルマの仕上げに集中できるし、メカニックもくたびれないできちっと仕上げて、あとはクルマを磨いているだけですむでしょう。たぶんそれが良かったんだと思うよ。そういう時に、たまたまダンががんばったんだよな、いい仕事をしたよ。本人が一番嬉しかっただろうね、ホンダがそれだけ望んでいた勝利を自分がやったっていうのはね。
 

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Q その後も勝ち続け、あの年のホンダは14連勝しましたね
どんどん勝ち始めたのはおもしろかったし、いろんな意味で忘れられない年だよ。1年目の2003年は2勝だけで、ぼろくそだったから。とにかく勝てって言われていたし、そのためにチームも増えたけど、AGRもあの時はほんとうに車体の開発も含めて、いろんなことをやってくれて、僕らもずいぶんケツをたたきに行ってね。放っておくと、すぐずるずると負けちゃうから。
 
インディ500も雨で大荒れになってレイホール(レターマン・レーシング)が勝ったけど、インディが終わったあたりからの、連勝ムードが始まった時のAGRはおもしろかったよね。勢いがあった。ほんとに。次は誰、次は誰、今度は俺の番だってね。勝って当たり前とは言わないし、トヨタのペンスキーだって黙ってないから大変だったけど、勢いがあったから楽しかった。そういう中でも、特にダンはああいうキャラだったから、おもしろかったよね。
 
最終戦のテキサスでもトニーとダンでワンツーになり、15連勝できるはずだった。あの時はエリオ(カストロネベス)、トニー、ダンの順で、あと2周でグリーンになったんだけど、再スタートのトルクはうちが圧倒的に勝っていたから、第4ターンの立ち上がりで後ろについて、もう勝てるなっていう中で、ちょっと安心していたんだよね。
 
トニーとダンが1位と2位で、最終戦もいい格好で終われるなと思っていたら、エリオがオレンジ・コーン(スタート時に加速が許されるポイント)を無視して先に行っちゃった。結局、レース後にもめたじゃない、2時間も。それで、連勝が切れたんだよ(最終的にカストロネベスに5万ドルの罰金と15ポイント剥奪となったが、順位は変わらず)。あれは一番悔しかったね。
 
僕にとっては、自分のレース・キャリアの中でも、やはり2004年が一番おもしろかった。ワンメークになる前のコンペティションがある頃だったから、ある意味ではピークだったね。シャシーだってまだパノスもいたし、いろんな競争があった。チップやペンスキーは向こう(トヨタ)だったし、AGRを軸に戦っている僕らはどう考えたって劣勢だった。
 
その中で、うちの役者はおもしろかったよね。みんな、とにかく勝つために色々やろうって。そういう意味で、2004年っていうのは彼らも一番おもしろかっただろうし、僕らもやってておもしろかったね。ダンはその時の兄弟の一番末っ子で、みんなにかわいがられたから。
 

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ひとつ勝つと、その晩はコースでバーベキューやって、ビール掛け合ってドンちゃん騒ぎやってたでしょう。それを次々にやっていくわけじゃない。毎週レースがある時もあって、どんどんいい方にごろごろ転がっている勢いがあったから、おもしろかった。いい仲間がいっぱいいたと思うな。楽しい年だったよね。
 
Q ダンと最後に会ったのは、いつでしたか?
優勝した2011年のインディ500だった。チーム・オーナーのブライアン(ハータ)もよく知っているし、彼らは昔の AGR時代のいいコンビだったから、出れて良かったねって言って。レースの前の日にダンの息子とも会って、まだ二歳だったと思うけど、「来年三つになるからカートに乗せるんだ」って言っててね。将来はホンダの F1ドライバーになるから、覚えておいてって(笑)。かわいい子で、写真も撮ったんだよ。
 

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あのレースでは、まさかパンサーの新人(JRヒルデブランド)が来るとは思わなかった。このまま勝ったらどうなるんだろうと思ったけど、あれは完全に舞い上がっちゃったんだろうね(最終周に最終ターンでクラッシュ)。ダンはスポット参戦のようなチーム体制でも、きちんとそういうところにいるから強いんだよ。強運だと思う。ブライアンもあれは嬉しかっただろうね。
 
以前ブライアンは HPDの近所に住んでいて、 HPD の開発を昔から手伝っていたし、そういう意味じゃ仲間のチームのようなもんだから、勝ってよかった。ドラマがあったし、おもしろいレースだったよね。勝つべき人が勝ったというか、新人がぽっと勝ったらおもしろくないでしょ?(笑)。力がある人が勝つのはおもしろいけど、あれは結果として、ダンが勝ってくれたほうが、まとまりがよかったね。
 
ゴール後、彼はテレビのカメラに囲まれながら僕の目の前を通ったんだけど、ぱっと目があったらダンが来てくれて、抱き合って「よかったね、よかったね」って。彼は半分泣いていて、もうブライアンは完全に泣いていた。ほんとうによかったよ、あれはねぇ。
 
もう1回ラスベガスで勝ちたかったんだろう。あれだけ運が強いのに、なんでこんなことになったのか。会ったのはあれが最後になってしまった。
 

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Q 訃報はいつ聞かれましたか
ちょうどイギリスに行く日で、成田に向かっている途中にホンダの連中とかアメリカの友人からメールをもらって。その時点では状況が見えないから飛行機に乗って、着いたらイギリスでは夜のニュースでもやっていたし、翌朝の新聞のスポーツ面は頭からダンの追悼記事になっていて、日本に帰る頃には現地のオートスポーツの表紙が追悼版になっていた。彼はイギリス発のヒーローだったからね。
 
ダンとジェンソン・バトン、アンソニー・デビットソンはカートでほぼ同期なんだよ。みんなけっこういい勝負していて、鈴鹿にも来ていた。たまたまご縁があって、順番にみんな仲よしになって・・・。イギリスでやっていた追悼番組や記事には必ずジェンソンか、アンソニーが出てたから、ああそうだったなぁと思ってね。
 
Q アクシデントに関してはどのようにお考えでしょう
パック(集団)になるのがインディカーのおもしろいところではあるんだけど、ああいう事故をどうやって防ごうかってことで、後にバンパーをつけてみたり、いろんな対策をやったクルマをね、今年から使うことになっていたよね。あと一戦だった。今度は跳び上がる可能性がずっと減るよね。0とは言わないけど、だいぶ減る。ほんとうに、あと一戦終わればという状況だった。
 
フォーミュラは、飛ぶのが宿命だからね。タイヤが出ているから、当たれば上がるのはしょうがなくて、前のタイヤが上がって空気が車体の下に入りこんだら、飛びやすい。コースそのものの安全性では、セーファー・ウォール(フェンスの下の部分にある衝撃吸収壁)があったわけで、そこだったら面で当たって滑ってただろうね。ポールがある金網に当たったから、今回のようなことになったと思う。
 

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Q ドライバーとしてのダンはどうでしたか
彼はすごく意欲的なドライバーだったから、2年目は俺が勝つんだって、すごく前向きにやってた。貪欲だったよね。早いうちにイギリスに見切りをつけて、アメリカにずいぶん若い頃に渡ったでしょ。F2000、アトランティック、インディ・ライツとやって。オーバルに生きる道を見つけて、そこで光るものを身につけて磨いたから、偉いよね。
 
ジェンソンはF1に行って、その下にアンソニーがいて、彼はF1でテストドライバーをして最後にスポーツカーに行ったから、インディとF1とスポーツカーと、同世代の3人が、イギリスの新世代が育ったんだよね。ハミルトンはもう一つ世代が後だからね。
 
2005年からロードやストリートが増えたけど、彼はオーバルの方が向いていた。ジェンソンやアンソニーもそうだけど、この世代はものすごくスムースな運転をするんだよ。ものすごく細かなコントロールで、例えばショート・オーバルで滑らせながら、ズルズルしながら一周回ってみたいな、ああいう感じがものすごく好きだって言ってたことがある。ほんとうにエッジを越えたところで、ギリギリで走っているんだって。それがオーバルの醍醐味だし、プロのドライバーだから、ちゃんと見ていて欲しいって。
 
そういう意味では、力仕事のロードよりもどっちかというと、オーバルのギリギリをなめていくようなレースが得意で、好きだったんじゃないかな。それがインディ500の勝利にも繋がったと思う。
 
Q ダンは性格も良かったですね
彼の人間性を一言で言うのは難しいんだけど、レースに対する姿勢から、普段バカなことを言って遊んでいる時まで、彼の性格がそのまま出ていたね。たぶんスポンサーも含めて、周りのみんなに対してそうだったと思う。
 
明るくて前向きで、仲間を作るのがうまくてね。エンジニアともすごくうまくやっていたし、周りに必ず仲間ができていた。追悼セレモニーを見てのとおり、彼の友達がおもしろいエピソードを披露して、みんな腹をかかえて笑っていたよね。あれが彼の性格だと思う。常に前向きで明るくてね。レースに対しての意欲もそうだったから、すごいポジティブに走ってくれていた。
 
クルマのできが悪いと文句ばっかり言うドライバーもいて、どんどんネガティブになっていく人もいるんだけど、彼はどうしたらもうちょっと前に行けるだろう、あともうちょっと、もうちょっとだって、いい方向に考える男だったと思う。明るかったよ。すごく。中には1回だめになるとどんどん悪い方向へ行って、ムスっとして何も言わなくなって、よけい遅くなるドライバーもいたからね(笑)
 
常に、どこへ行っても最年少で、周りにいるのはマイケル(アンドレッティ)とか、あの頃はまだ共同オーナーのキム(グリーン)やケビン(サボりー)もいて、ブライアンにトニーにダリオでしょ。それに僕やロバート(クラーク=当時のHPDジェネラル・マネージャー)とか。僕らもいたずらはずいぶんしたよ(笑)。
 
本人も自分がそういう役回りというか、わかっていたから全然いやな顔しなかったし、みんなとワイワイやってたね。2004年はある意味 AGR の最盛期で、一番良い年だった。その中ですごく、明るいキャラがいっぱい揃っていたから、おもしろかったね。今年、ほんとうはマイケルのところに、戻る約束になっていたんでしょう・・・。
 

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まだ歯の整形をする前の話で、あの頃のほうがかわいかったのにね(笑)。欧米人は八重歯ってほとんどいなくて、日本人より歯並びを大事にするでしょ。向こうで八重歯っていうのは、たとえばドラキュラだとか、吸血鬼とかを連想させるとかで、ものすごく嫌うんだよ。成人して歯がでこぼこなのはよっぽど貧乏してたか、なんか理由があるって思われるみたいで、みんな抜くとか矯正するんだね。だから彼もやったんだと思う。
 
僕は2004年いっぱいでインディからいなくなったけど、日本に帰ってきてからもインディ・ジャパンで何回か会った。会うといつもニコニコして、すごく面倒見も良かった。ツインリンクもてぎにいた土屋さん(元支配人の土屋一正氏)とも話したんだけど、インディ・ジャパンで色々なイベントをドライバーに頼むじゃないですか、あれに出てこれに出てって。その中で彼が一番明るくて、前向きに何でもハイハイと言ってやってくれたから、ほんとうに現場の人に人気があったって。彼は全然高飛車のところがなくて、何を頼んでも、明るくやってくれた。ほんとうにもったいないよね。
 

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まだ33だったでしょう。結婚してからは落ち着いて、息子を自慢する良いお父さんになっていた。劇的な勝利を見せてくれたインディ500で話をした後だったから、ほんとうにかわいそうでね・・・。
 
心から、ご冥福をお祈りします。
 

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