<TWIN RING MOTEGI>
ビクトリー・レーンに立ったバズ・カルキンスの「I’m going to Indy!(次はインディだ)」という言葉は、ウォルト・ディズニー・ワールド・スピードウェイで開催されたインディカー・シリーズの初レースにふさわしいものだった。
このレースに優勝したカルキンスは、4カ月後に行なわれた第80回インディアナポリス500マイル・レースを戦った。それが彼にとって次に予定されていたレースだったからだ。インディ500を17位で終え、同ポイントで1996年のシリーズ・タイトルを獲得している。
インディアナポリス・モーター・スピードウェイの代表で最高経営責任者だったトニー・ジョージが、インディ500を頂点とするフォーミュラカーによるオーバルトラック・レースのシリーズ戦を創設しようと考えてから2年もたたない1996年1月27日に、カルキンスは最初のレースを制した。このレースに出場していたインディカー・シリーズのチャンピオンは、カルキンスとスコット・シャープ(1996年)、トニー・スチュワート(1996-97年)、バディ・ラジアー(2000年)の4人。インディ500優勝経験者は、ラジアー(1995年)、エディ・チーバー(1998年)、アリー・ルーエンダイク(1990、1997年)の3人がいた。カルキンスがマークした最速ラップの平均スピードは171.805マイル(約
276.5km/h)。イエロー・フラッグが提示されたのは5回(計21周)であった。
インディカー・シリーズにとって、その後の日々は参戦するマシンのスピードを思わせるめまぐるしさで流れていった。
魔法の国、ディズニー・ワールドでの一戦には、満員の5万1000人という大観衆が訪れ、ABCテレビの視聴者は、20台のマシンがスタートする場面を見守った。フォード・コスワースXB/レイナードを操ったカルキンスと2位でゴールしたスチュワートの差(0.866秒)もその後のシリーズを象徴するものだった。インディカー・シリーズ通算120レースのうち、このときを含めて55戦が、1秒以内のタイム差で決着しているのだ。
5番グリッドからスタートしたカルキンスは「あの勝利は私の人生で最高の瞬間だった。あとになるほど、そういう思いが強くなった。ほんとうに重要なレースに勝てた」と語る。
「トニー(ジョージ)は新しいシリーズの発足させることに全力を傾けたが、マシンを集めるのはたいへんだったと思う。いろいろな形と大きさのマシンが混在し、解決されていない問題が山積していた」とカルキンスは語り、A.J.フォイト・エンタープライズから出場し、予選4番手から14位でレースを終えたシャープは、フロリダ州オーランドに到着した瞬間から「知らないことばかりだ」と言っていた。
「それから2年間は、TV放映の問題、コース、チーム、メーカー、ドライバーに対して、さまざまな方面で難問があり、インディカー・シリーズはそれらすべてを乗り越えてきた。この10年間の発展ぶりは、ほんとうに驚嘆すべきものだ」とある関係者は感想を漏らした。
「ここまで続いたこと自体が、IRLにとってはすばらしいことだ。その当時、関係者であれ誰であれ、IRLがこれから100レース続くかどうかと聞かれたら、全員がノーと答えていたことだろう。それだけに、成功した姿を見るととても気分がいい」とカルキンスは言っている。