<TWINRING MOTEGI>
武藤英紀ロングインタビュー
『さらなる頂点を目指して!武藤英紀アメリカ最高峰IRLインディカー・シリーズに参戦』
2008年アメリカ、IRLインディカー・シリーズに参戦する武藤英紀。インディカー・シリーズは世界最大のモータースポーツイベント「インディアナポリス500マイルレース(通称インディ500)」を頂点とするアメリカ最高峰のフォーミュラカー・レースシリーズだ。インディ500は1911年に第1回大会が開催されて以来、今年で92回目を数える歴史と伝統を誇るレースで、F1モナコGP、ル・マン24時間レースと並び世界3大レースと称されるほど。そしてそのシリーズ第3戦「BRIDGESTONE INDY JAPAN 300 mile」が、4月17日、18日、19日にツインリンクもてぎ、スーパースピードウェイで開催されるのだ。
武藤は昨年IRLのステップアップカテゴリー、IPS(インディ・プロシリーズ)で2勝を記録し、シリーズランキング2位を獲得すると同時に、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた実績があるが、トップカテゴリーIRLのレベルはそれを大きく上回るもの。事実過去何人もの日本人ドライバーが挑戦したが、優勝した者はいない。だがその悲願を武藤こそが成し遂げてくれるのだと、誰もがそう感じている。そしてそれを最も強く願っているのが武藤自身なのだ。
幼少の頃からあこがれ続け、自らの手で切り開いてきたモータースポーツへの道。初のIRLへ臨む思い、母国凱旋レースとなる「BRIDGESTONE INDY JAPAN 300 mile」への思いなど、2008年シリーズ開幕を前に、飾ることなく様々な思いを語ってくれた。
『母国凱旋レースはやはり特別な思いがある。もてぎのグリッドで君が代を聞いたら込み上げてくるかもしれない』
―― IRL参戦が決まって、いよいよシリーズが始まろうとしていますが、今の率直なお気持ちはいかがですか。
武藤 IRLのトップチームAGR(アンドレッティ・グリーンレーシング)で走ると聞いたときは、本当?という感じで信じられなかったですね。でも実際にテストをしてみるとすごく暖かいチームです。これまで数多く優勝してチームが勝つことに慣れているから、その中にいるとプレッシャーを感じることなく、逆に落ち着いていられます。
―― これまで参戦したどの日本人選手よりも初優勝の期待が高まっていますが。
武藤 これまでオーバルコースもロードコースもテストで走りましたが、チームメイトとほぼ同じタイムで走れましたし、時にはそれを上回ることもできました。すごく手応えを感じましたし、少し自信につながりました。チームからも「驚いたよ」と、評価してもらえました。でも開幕戦はたとえ遅くてもあせらないで行きたいです。僕の中で1番はもてぎ、次がインディ500ですからね。
―― そのもてぎでの「BRIDGESTONE INDY JAPAN 300 mile」、武藤選手にとっては初めての母国凱旋レースになるわけですが、やはり特別な思いがありますか。
武藤 やはり特別な思いはあります。今まで海外でレースをしていても、日本でのレースはありませんでしたから、すごく楽しみですし、今からわくわくしています。応援しに来てくれるファンの方もいるし、僕の小学、中学時代の友人もくると思う。やはりいいところを見せたいですね。みんなを感動させる走りができればいいなと思っています。ただ力みすぎるといいことがないので(笑)…。それにスタート前に君が代が流れ、スターティンググリッドに並んだらこみ上げてくるかもしれない(笑)。IPSで初優勝したとき君が代が流れて感動したけど、また別の感動があると思います。
―― 先ほどテストで手応えがあったということですが日本人初となるIRL優勝に向けての自信はいかがでしょう。
武藤 日本人から見れば優勝はすごく大きなことだけど、これまで何度も勝っているAGRから見れば1勝は大きなことではないと思う。きちんとレースすれば結果はついてくると思う。
―― それがもてぎなら最高なのですが。
武藤 そうですね。チームはもてぎで3年連続優勝していますから、自分がチームのもてぎ4連覇目に収まればいいかなと思います。もちろん優勝を狙っていきますよ。僕も生でレースを観てあこがれました。子供たちもたくさん来ると思うので、皆にあこがれを与えるようなインパクトのある走りをしたいですね。
『実家は代々続く魚屋。小学生の頃はジャイアンツの選手になりたかった武藤少年がのめり込んだのは、レーシングカートの世界』
―― そもそもレーシングドライバーを目指したきっかけはなんだったのですか。
武藤 中学のときに野球をやっていて、小学1年のときはジャイアンツの選手になりたかったんですよ(笑)。でも3、4歳の頃にテレビでレースを見て憧れ、レーサーになりたいと思っていました。最初に好きだったのはヨーロッパのツーリングカーレース(笑)。
―― それはまた子供にしては渋いところが好きだったんですね(笑)。
武藤 マフラーから火を噴くところがかっこいいと(笑)…。でもその後F1をテレビで見てやっぱりフォーミュラはかっこいいと思いましたけどね。遊園地のゴーカートが好きでよく行っていたんですけど、スピードが出ない。速いのに乗りたいと、ずっと父に言っていたんです。そんな時、車雑誌にレーシングカートが載っていて時速100km出ると書いてあったから、すぐに父に頼んで千葉県のカートコースに連れて行ってもらいました。小学校の4年、5年生の頃ですね。最初はただ走っていて楽しいだけでしたが、走れば走るほど速くなる。自然にレースに出たいと思いました。レースに出たら負けない。優勝できてまた面白くなって、のめり込んできましたね。父もレースが好きだったんだと思います。
―― お父さんも一緒にレースに出たりはしなかったのですか。
武藤 レーシングチームに入っていましたが、12、13歳くらいまで父が現場でレースのサポートをしてくれましたが、どんなに進めても絶対にカートには乗らなかったですね。きっと負けたら悔しいから嫌だったんでしょうね(笑)。僕は最初の年に新人賞を獲って、2年目にベルギーに行ってレースに参戦、3年目はJAF東シリーズのチャンピオンを獲りました。その頃から海外でレースをしたいという気持ちが強かったです。
―― 実家は老舗の魚屋さんと聞いております。
武藤 築地市場で中卸を営んでいる、布袋寅(ほてとら)というひいおじいさんから続いている店です。幼稚園くらいの頃から年末になると必ず市場に行くんです。市場の人達が皆お年玉をくれるのが嬉しくて(笑)。イクラの箱詰などを手伝ってましたが、余り物をつまんで食べたりとじゃまだったと思います(笑)。でも朝が早いのでこれは大変だなと思いました。
―― 魚屋さんの後を継ぐ話はなかったんですか。
武藤 父の口からは「後を継げ」とかは一切出なかったですね。「魚屋はいつでもなれる、好きなことをやれ」という感じでした。でもおじいちゃんは後を継いでほしかったみたいです。
―― では、おじいさんはレースをすることに反対だったんですか。
武藤 「魚屋からレーサーになんかなれない。あれは金持ちのお坊ちゃんがやるもの」と、二十歳くらいまで言われました(笑)。自分が載っている雑誌を見せても投げつけられてしまいました(笑)。そう言わなくなったのは全日本F3に参戦していた2005年くらいからです。テレビのレースドキュメンタリーで体力が必要だし、レースが大変なのを見て、今では応援してくれてます。サーキットに観に来てくれることはないんですが、もてぎには招待したほうがいいかなと思います。もう80歳を超えてますから(笑)。
『中学の卒業式の翌日に単身渡英。何も分からないままたったひとりで切り開いたモータースポーツへの道』
―― 中学を出てすぐに海外に出て行った。それもたった一人でと聞いていますが。
武藤 中学の卒業式の翌日にいきなりイギリスに行っちゃいました。でも2日くらいで日本に帰りたくなった(笑)。日本に帰って高校に行こうと思いました。まだ4月でしたから(笑)。
英語も分からないし本当にそう思いましたよ。でも恥ずかしいしかっこつかない。強気なこと言って出てきたから家にいられないなと。
―― それにしてもわずか15歳の少年が思い切ったことをしましたね。不安とかはなかったんですか。
武藤 カート時代に海外レースに参戦したこともあったし、深く考えなかったですね。あまり考えると逆に動けなくなったしまうタイプなので(笑)。カートを一緒にやっていた選手がイギリスのF3に参戦してすごく勉強になったという話を聞いたんです。それで行ってみようかなと、ホームステイ先を教えてもらいました。その選手が英語を勉強しなくてもなんとかなると言っていたんです。信用したのが間違いでしたね(笑)。
―― そのイギリスで本格的にレースを始めたわけですか。
武藤 ホームステイ先はノーリッジという田舎町で何もないところでした。もちろんコンビニもありません(笑)。英語もしゃべれないし辞書がないとどこにもいけませんでしたね。イギリスのレースライセンスは16歳から取得できる。11月に16歳になるので、それまで語学学校に行ったりしました。ホームステイ先が八百屋でその仕事を手伝いなどしていました。結構英語がしゃべれるようになりましたよ。ただ白米がなかなか手に入らないし、生魚も食べない。魚屋の息子としては辛かったですね(笑)。11月にライセンスを取ってフォーミュラ・ボクソール・ジュニア・ウインターシリーズに参戦。翌年から英国フォーミュラ・ボクソール・シリーズに参戦しました。
―― 今年のチームメイトも同じ頃に走っていたと聞きましたが。
武藤 ダリオ・フランキッティの弟やダニカ・パトリック(※)もいました。ダニカはIRLのテストで会ったとき僕のことを覚えていましたよ。あの頃のダニカはクラッシュばかりしていましたね(笑)。イギリス3年目の2000年、フォーミュラ・フォードフェスティバル、一言でいうとフォーミュラ・フォードの世界一決定戦といった感じのものですけど、各国から105台が参加して、最終的に7位になりました。予選レース形式で勝ち上がって行くのですが、どの選手も激しいドライビングは当たり前でファイナルレースに進んだときは、もうマシンがボロボロでした。
※:ダニカ・パトリック=全米でダニカフィーバーを巻き起こした美人実力派レーサー。昨年からAGRに所属し今シーズンは武藤のチームメイトとなる。
―― 4年間イギリスをベースに戦って、日本に帰ってきたわけですが、武藤選手の目標はF1、ヨーロッパでレースを続けるつもりはなかったのですか。
武藤 ヨーロッパでステップアップするのも日本と同じでお金がかかる。もうお金がなかったですから。そのときにフォーミュラ・ドリームのことを知って帰国しました。これでダメだったらレースを止めようと、本当に思っていました。結局ランキング2位。もう燃え尽きたって感じで、いよいよ魚屋を継ごうと思いました。
『住まいは昨年と同じインディアナポリスのファクトリー近く。だが今度はインディドライバーとしてのアメリカンライフが始まる』
―― 魚屋を継ごうと思った人が、今やアメリカのトップレースに参戦するまでになったのは?
武藤 フォーミュラ・ドリーム、ランク2位になったことから費用免除で翌年も参戦できることが分かって、もったいないし(笑)。もう1年チャレンジして、2位以下なら止めようと思っていました。その1年はとにかく集中しました。その気持ちは今でも変わりません。家からお金を持ち出したりするようなら、レースを止めようと思っています。
―― その結果は見事にチャンピオン獲得。スカラシップで翌年のF3参戦を決めました。
武藤 フォーミュラ・ドリームのタイトルをとって直ぐにでもイギリスF3に参戦できると思っていました。早く上に行かなくっちゃと。でもそんなに甘くはなかったですね(笑)。でも翌年の全日本F3参戦は僕にとっては重要な一年でした。いろいろ勉強しました。人に挨拶しなきゃいけないとか(笑)。フォーミュラ・ドリームの頃は他のドライバーと話す余裕もなく挨拶もしなかった。嫌な奴と思われていたでしょうね(笑)。でも丸くなるのは嫌ですね。チームメイトは別ですけど、今でもレースの世界では友人という関係はあえて作らないようにしています。
―― 2年のF3参戦の後、国内最高峰のフォーミュラ・ニッポン参戦を決め、そしてインディ・プロシリーズ参戦と、この2,3年はまさに駆け抜けた感じがします。
武藤 そうですね。フォーミュラ・ニッポンとスーパーGTのGT500クラスに参戦して、
ハイレベルな環境の中で常に集中して走らなければならない。すごく勉強になりました。最初インディ・プロシリーズの話が来たとき正直悩みました。フォーミュラ・ニッポンから見ればステップダウンになりますし、もしインディ・プロシリーズで結果を残せなければIRLにも行けないし、日本に帰っても参戦できるレースがなくなってしまうのではないかとも考えました。
―― それが見事に2勝を記録してシリーズランキング2位を獲得。ルーキー・オブ・ザ・イヤーにも輝きました。
武藤 インディ・プロシリーズの開幕前のテスト走行でチームのパフォーマンスはあると思ったし、いい勝ち方ができると思いました。でも今思えばデビューレースはすごく慎重でしたね(笑)。完走しないと何も残らないと思っていました。それが3位に入って手応えを掴みました。自分はオーバルコースに向いているんじゃないかと思いましたね(笑)。
―― 今年もアメリカに住むことになるわけですが、アメリカンライフはいかがですか。
武藤 インディアナポリスのチームファクトリーに近いところに昨年から住んでいます。田舎町で、またこういう生活が始まるのかとイギリス時代を思い出しました(笑)。遊ぶところもないので毎日ファクトリーに行っていました。たまにシカゴに買い物に行ったりして充実していました。それにアメリカは日本食レストランが多い。結構おいしいところもありますよ。ただ魚はね(笑)。魚がそんなに好きなわけではないけど、どうしても家で食べるのと比べてしまいますね(笑)。昨年と同じところに住むわけですけど、今年はインディドライバーとしてのアメリカンライフ。やはり気持ちが違いますね。
―― 最後に日本のファンにメッセージをお願いします。
武藤 もてぎに帰ってくるのが今から楽しみです。みなさんにいいレースを見せられるようがんばりますので応援よろしくお願いします。