さすがの木下さんも「できない」
最初は無理だと思った小樽グランプリ
小樽で生まれ育ち、今も手宮線沿線に住む北海道小樽グランプリ推進協議会の事務局長、荒澤之博さん。小樽が北海道で最も繁栄していた明治の終わり、新潟から移り住んだ荒澤さんの祖父は、1914年(大正3年)に荒澤商事を創業する。かつて小樽は横浜、神戸に次いで世界貿易港(1899年)になったほど、港を中心に栄えていた中で、荒澤商事は防波堤や運河、埠頭の整備といった港湾に関連する仕事に携わってきた。それだけに小樽の港の歴史は、特に詳しい。
理事長の木下さんとは高校の先輩後輩だが、二人が初めて交流をもったのは青年会議所に入ってからのこと。家業を継ぐことになった荒澤さんは平成4年に入会し、そこに直前まで理事長を務めていた木下さんがいた。小樽と関わりの深かった樺太(現サハリン)との交流をテーマに、事業を展開していた当時の小樽青年会議所は使節団を結成。木下さんが初代団長で経済交流を行い、7代目の団長だった荒澤さんは、中学生のサッカー選抜チームを率いて現地に遠征した。
青年会議所の任期を終えた荒澤さんは、木下さんが理事長だったNPO法人“潮騒の街おたる”に加入する。二人の街づくりはここからスタートした。
「運河の浄化など、色々なことをやってきましたが、教育というか、子供たちに地元の色々なことを知って欲しいというのがメインでした。運河をなぜきれいにするのかということで、もっと水に親しんでもらうために運河でカヌーやボートを漕いだり、手宮線にトロッコをもってきて走らせたりして、楽しみながら地元を知ってもらうというのが、テーマでしたね」と荒澤さん。
しかし公道を使った小樽グランプリの話が舞い込んだ時は、さすがに無理だと思ったという。
「木下さんはあまりノーと言わない人で、すべてを受け入れるような人なんです。とても前向きで、細かいことは気にしないというか(笑)。だからこそ多くの人に好かれているわけですけど、小樽グランプリだけは、『できない』って言いましたよ」
近況
3月27日に日本最大の客船である飛鳥?が小樽にやって来ました。小樽駅からも見えるほど巨大な船は、まさに動くホテル。でも宿としての使用だけでなく、記者会見やプレスルーム、スポンサー向けのホスピタリティやチームの控え室など、かなり使えそうです。通常、市街地コースはこれらの施設をレースのたびに仮設するのですが、その必要がないということは、とても大きいことです。
(オートスポーツ誌 2006年4月13日号に掲載)