Kazuki Saito's

“チャンプ・カー北の国へ” 日本初・公道グランプリ開催への道! 第21歩>>義経号としづか号の再会物語

チャンプカーの前例は機関車?
小樽街おこしのルーツを探る
 北海道小樽グランプリ推進協議会の理事長、木下 修さんが家業を継ぐために東京から小樽へと戻ってきたのは1975年。地元ではその2年前から運河論争が渦巻いていた。巷で運河を埋める、埋めないで街が二分している中、25歳だった木下さんは青年会議所の活動に参加することになる。それは、小樽の貴重な歴史遺産である、鉄道をテーマにした街おこしだった。
 「あの頃はまだ若かったので、今のように街づくりにはそれほど関心は無かったんですよ。でも昭和55年(1980年)が北海道の鉄道開通100年にあたるということで、義経としづかを再会させようということになったんです」と木下さんは当時を振り返る。「私の祖父が鉄道の技術者だったということで引っ張られ、私自身も非常にロマンを感じましたので、一生懸命やりました」
 “義経としづか”とは、北海道の鉄道開業時にアメリカから輸入された蒸気機関車であり、1号機である義経号は1880年の開通時、6号機のしづか号はその5年後に小樽へとやってきた。小樽青年会議所は、平安の昔、離ればなれになった源義経と静御前の史記をもとに、神戸の鷹取工場で保存(現在は大阪交通科学館で保存)されていた義経号と、小樽の北海道鉄道記念館(現交通記念館)に保存されていたしづか号の再会を企画。当時の国鉄総裁に陳情し、両機が初めて出会った地、小樽での再会が実現する。
 「国鉄も北海道鉄道100年で何かやらなくてはということだったので、わざわざ義経を動くようにしてからバラして札幌まで運び、稲穂機関区で再び組み上げて小樽まで走っていったんです。しづかも鐘が鳴らなくなっていて、プレートもぼろぼろだったので当社で作り直しました。祖父も鉄道の世界にいましたから、当時の義経としづかが再会を果たした時は、感動しましたね。色々なことが、頭をよぎりましたよ」と感慨深げな木下さん。
 「これを機に、小樽の鉄道の歴史に関して非常に関心をもつようになりました。こういう過去があったということを、絶対に後世に残すべきだと思ったのです」

近況
韓国でチャンプ・カーの社長と副社長に「小樽は豪華客船からの観戦が可能だ」と話し、そのCGイラストを見せたところ、かなりエキサイトしていました。モナコは個人のクルーザーが停泊できますが、客船は難しいので、もし実現すれば世界初となるかもしれません。ちなみにケビン・カルコーベンもザ・ワールドという客船の一室を持っているそうで、「その船を呼ぼうか!」なんて話もしてきました。
(オートスポーツ誌 2006年3月23日号に掲載)