震災時にテレビ中継で観た映像は、我が目を疑う光景でした。仙台市若林区、そして名取市の海岸沿いに押し寄せる白い大きな波は、陸地へと確実に向かっていき、砂浜へたどり着くと家や田畑を次々と飲み込んでいきました。
すべてを押し流しながらドス黒い塊となった津波は、その勢いを緩めようとはせず、確実に内陸へと突き進んでいきました。その光景を観ている僕らの“もうやめてくれ・・・”という願いは届かず、その映像を見続けることしかできませんでした。
決して忘れることができない、そのテレビに映し出された仙台市若林区の海岸沿いから名取市の海岸沿いにかけてを、今回の帰省でやっと訪れることができました。
仙台東部有料道路を多賀城方面から南下し、仙台空港へ。この有料道路は仙台平野に広がる田園の中を盛土して施された部分が多く、それが内陸へと突き進んだ津波の最後の堤防となりました。そのため、震災以来この道路を走りながら眺める海の方面と山の方面では、まったく違う景色になっていました。
空港まで押し寄せた津波の映像も脳裏に焼きついていますが、仙台空港は大被害を受けたにもかかわらず、震災から約1ヶ月後の4月13日から臨時便の発着がスタート。現在では国際線の発着までできるようになり、仙台の空の玄関として見事に復旧していました。
空港周辺の関連企業(駐車場、レンタカー会社など)は、機能している会社もありましたが、営業再開にまだ時間がかかっているところもあります。大型飲食店などはまだ手付かずのところもあり、やるせない思いがそれらの建物から伝わってきました。
仙台空港から県道10号線を北上し、閖上(ゆりあげ)のほうへ。このあたりだと海岸から約3キロの場所となるのですが、県道沿いに打ち上げられた漁船を、約10ヵ月たった時点でも何艘か見かけました。
名取川の河口となる閖上港周辺にあった住宅街は流され、コンクリートの土台しか残っていない場所がほとんどでしたが、港には漁船が停泊しており、漁業が再開しているようでした。先ほど県道沿いに見かけた漁船は、この港から流されていったのでしょうか。
閖上港からさらに北上し、仙台市若林区荒浜へと向かいました。海岸沿いにある荒浜地区の家々もほとんど流されてしまい、コンクリートの土台だけが残され、荒浜小学校と体育館だけが存在していました。
あのとき何もかもを押し流し、何百人もの尊い命を奪った大津波が襲ってきたところとは思えない、穏やかな波が荒浜の砂浜に打ち寄せていました。でも、ふと振り返れば、変わり果てた街の姿が視界に飛び込んできます。
そのギャップに戸惑いながらも、こうやってあのとき映像でしか見ることができなかった場所に立つことによって、この現実を確かに受け止めることができました。そして、復興への想いは僕の身体の一部となったことも、確かに実感できました。
地元の方々やボランティアの方々をはじめ、復興に携わっている各企業の懸命な努力によって、確実に復興へと進んでいます。最後に、地元の方の切実なる願いが書かれたボードを見つけました。
自分の生まれ育った土地を致し方なく、それこそ断腸の思いで手放した方々もいたと思います。再びこの地に家が建ち並ぶことができるのか、行政がそれを望んでいる方々に応えられるのか、まだまだ大きな問題が山積みとなっています。
この地にいた方々が、津波前の日常の生活に早く戻れるよう、そのためにもこの街をはじめ、地元の多賀城や宮城、そして東北を復興していく力になれるように、これからも自分にできることをがんばっていこうと改めて思う、今回の帰省となりました。
次回は帰省時に行くことができなかった復興に関するお店にね、なんと東京で行くことができたので、ご紹介したいと思います。