1962年に設立され、今年で31回目の開催を迎えたアメリカ屈指のサーキット、ミド-オハイオ・スポーツ・カー・コース。アップ&ダウンが激しい約3.6キロのロード・コースを舞台に、90周で争われた第14戦を制したのはグラハム・レイホールでした。第11戦フォンタナで2008年の初優勝以来となる2勝目を、125戦目で獲得したレイホールが、わずかその3戦後に3勝目をマークしました。
前日の予選アタック中にチップ・ガナッシ・レーシングのセイジ・カラムに行く手を阻まれて減速を余儀なくされ、予選13位からスタートすることになったレイホール。ポジションを上げるため、上位勢よりも早い段階で最初のピットに入る作戦に出たレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングは、わずか13周目でレイホールをピットに呼び入れました。
その後上位勢がイエロー中の22周目にピットへ入り、33周目にトップへ浮上したレイホールは前に誰もいないクリーン・エアの中でスパートをかけ、36周目に自身のベスト・ラップをマーク。40周目に2度目のピットを終えて6番手でコースに戻り、49周目には3番手までアップしてレースの終盤に突入しました。後はどのタイミングで最後のピットを終えるかが勝負のカギとなります。
2012年と2013年に2年連続でコーションが発生しなかったミド-オハイオ。チームは第12戦ミルウォーキーで優勝したセバスチャン・ブルデイや、第13戦アイオワで優勝したライアン・ハンター-レイの作戦と同様、ゴールから逆算して最後まで走りきれる65周目にレイホールをピットへ呼びました。燃費に優れたホンダ・エンジンで、ゴールまでの25周を走りきろうという戦略です。
ちょうどこの時、コース上ではバック・ストレート・エンドでオーバーランしたカラムがスピンを喫し、コース上にストップ。66周目にフル・コース・コーションが出されることになり、レイホールの前を走っていたモントーヤとジョセフ・ニューガーデンは、ここでピットへ入らざるを得なくなりました。最後のピットに向かったレイホールは、トップでコースに戻ることができたのです。
「彼(カラム)は僕の相棒だよ」と満面の笑みで答えたレイホール。前日の予選でアタックを邪魔され、怒っていたのがウソのようでした。絶好のタイミングでトップに躍進したレイホールでしたが、「僕のクルマのほうが断然速かったから、ハードに行けば負かすことができたと思う」とレース後に語るほど、スピードにおいてもレイホールは自信がありました。
レースは残り10周となる81周目にフル・コース・コーションが出され、84周目に再スタートします。バック・ストレートで2番手のジャスティン・ウィルソンがプッシュ・トゥ・パスを使ってアウト側から半車身以上前に出ますが、すでにプッシュ・トゥ・パスを使い切っていたレイホールはブレーキをぎりぎりまで遅らせてトップを死守。家族や地元のファンが見守る中、真っ先にチェッカーを受けることができました。
「インディ500もそうだが、すべてのレースの中で最も多くの意味を持ち、最も勝ちたかったのがこのレースだ」と喜びを爆発させたレイホール。第11戦フォンタナで2勝目を得るまでに7年を要したレイホールでしたが、多くのドライバーが夢見る地元での勝利を、3勝目で達成したことになります。
「ずっと長い間この夢を見ていたよ。実際に金曜日の夜も勝つ夢を見たんだ。時々夢はかなうと思う。他に何を言えばいいんだろう。今日は我々の日だった。うまくいったよ。おじいちゃんがここでレースをし、お父さんはここで勝っている。我々ファミリーにとって、とても近い場所であり、貴重な場所なんだ。我々にとってすごく特別な日だ」
父親のボビーが1985年と86年にここで勝って以来、実に30年という時を経て息子が優勝しました。サーキットからクルマで1時間ほど南のニュー・アルバニーで育ったレイホールにとって、まさに地元での勝利です。フォンタナにはいなかったボビーが見守り、母親の前で初めて勝つことができました。
彼の兄弟や友人、地元のファンにとっても歓喜の瞬間だっただけでなく、エアロ・キットを導入して不振に喘いでいたホンダにとって、貴重な1勝となったのは言うまでも有りません。このオハイオ州に工場や研究所があるホンダにとっても、地元と言っていいサーキットであり、インディ500や本社が近いロング・ビーチと同様の「重点レース」となっています。
今回は15000人もの従業員や関係者が訪れていたのですが、予選トップ6をシボレーに独占された中でレースが始まっていた中、最終的にホンダがワンツー・フィニッシュ。さらにランキング・トップのファン・パブロ・モントーヤ(シボレー)が11位でフィニッシュしたことから、レイホールは42点差を9点差にまで縮めることに成功しました。
「今年のレースの状況や、大勢のホンダのみなさんが来ているのを見て、レース前はプレッシャーを感じないわけがないですよね。肩の荷が一つ降りた感じで、ほっとしました」と安堵の表情で語ってくれたHPDのエンジニア、田辺豊治さん。94年に父親のボビーを担当し、まだ小さな子供だったグラハムを見ていたことから、「親密感を感じる」と語っていました。
今年のレイホールの強さに関しては、「以前はレース・ペースが良くても途中でクラッシュしたり、ピットのタイミングでポジションを落としたりしていましたが、チームの総合力が上がって、レースに対してバランスのいいクルマを作れるようになりましたし、ピットのミスもなくなりましたね。乗りやすいクルマだとミスなく走れると思いますし、すべてがいい方向に回っているんだと思います」と田辺さん。
新しいエアロ・パッケージに苦労しているホンダ勢の中で飛びぬけていることについては、「もともとドライバーの好みのセッティングと、今のエアロの方向性が合っていると思いますが、チームはしっかりと解析してクルマを作っているからだと思います。解析力と、それをどう展開するか、そのあたりのスタッフの力も結果に結びついているのではないでしょうか」
最後のリスタートで2番手のウィルソンとのバトルになった時は、「そこでぶつかるなよ〜って思いましたよ」と本音を漏らした田辺さん。「絡まずにうまくいってくれたので、ほっとしました。共倒れになったら最悪ですから」。一方、当のウィルソンのほうも「グラハムをパスしたかったけど、彼は信じられないほどブレーキを遅くして、パスするには十分じゃなかった。彼はチャンピオンシップでホンダのリーダーだし、ホンダはここまでとても頑張ってきたから、今日は2位で良いって思ったんだ」
2010年の開幕戦サンパウロでインディカーのキャリアをスタートし、このレースが100戦目となった佐藤琢磨は、3位に入った予選15位のサイモン・パジノウに次ぐ予選16位からスタート。レイホールと同じ作戦で13周目に最初のピットを終わらせたものの、20周目に後ろからパスしようとしたステファノ・コレッティがインに飛び込もうとして追突、リア・バンパーにダメージを負ってしまいました。
交換のために琢磨はピットへ戻ったものの、アタッチメントがうまく入らず、2周のラップダウンとなってしまいます。さらに、レースへ復帰した後の60周目には突然リアが流れてコース・アウトを喫し、再びリア・バンパーを損傷した琢磨に予備のパーツはなく、無念のリタイアを余儀なくされました。
「彼(コレッティ)が後ろにいるのはわかってましたし、僕もプッシュ・トゥ・パスを使ってポジションを守ろうとしたのですが、彼の方がストレートは速かったです。ブレーキ直前で内側に入っていたのは解っていたんですが、ブレーキしてすぐにターンインするところなので、その前にある程度並んでからブレーキング勝負じゃないと無理なんですよ」
「彼が並びかけて僕が被せ、サイドポットとかに当たったのならしょうがないですけど、あれは完全にアングル的に無理です。一車身分ラインを残してある状態だったのですが、彼は止まりきれなくて、彼のフロントウィングと僕のリアバンパーですから、並んでもいない状態でした。ほんとうに不必要なアクシデントだったと思います」と肩を落とす琢磨。
残念な結果に終わったものの、100戦目を終えたことに関しては、「ほんとうにあっという間でした」と琢磨。「2010年からたくさんのレースを戦って、ここまでこれたのはみなさんの応援のおかげです。それとここまでサポートを続けてくれているスポンサーのみなさんと、ずっとレースをともにしているホンダのサポートと、全部が一つになってここまで続いていると思うので、感謝の気持ちでいっぱいです」
1994年にホンダがインディカー参戦を始めるに当たり、パートナーに選んだのがグラハムの父親、ボビー・レイホールでした。ホンダはHPDの他に当時オハイオにあったレイホールのチームの中にもオフィスを構え、参戦までの準備を進めていたのですが、1989年生まれのグラハムはまだ4〜5歳だったということになります。田辺さんが最初に見たのは、その頃だったのでしょう。
いつの日か一緒に地元ミド-オハイオで勝利することを夢見たボビーとホンダでしたが、その年のインディ500でスピード不足により決勝に進めず、チームはホンダを放棄してペンスキー&イルモアを使用。そのシーズンをもってホンダと別れることを決意し、ミド-オハイオの週末に発表するとホンダへFAXで通告したのですが、ホンダはミド-オハイオでの発表だけは止めて欲しいとチームに頼んだそうです。
紆余曲折を経て再びパートナーとなったのは2003年で、翌年、ホンダのインディ500初制覇のチームとなりました。2008年のシリーズ統合でチャンプカーに参戦していたグラハムがインディカーを走るようになり、セント・ピーターズバーグで初優勝。チームはニューマン/ハースでしたが、息子の時代になってやっとレイホールというドライバーがホンダと勝利したことになります。
もし初年度のインディ500での一件がなければ、ボビーとホンダの関係は続いていたでしょうし、1998年の引退前に地元ミド-オハイオでの3勝目を挙げることができていたかもしれません。別れることが決まった直後、険悪な雰囲気の中で行われた最初のミド-オハイオから実に20年以上を経た今年、ついにホンダとともに地元で勝利。偶然にもそれはボビーが初めてここで勝ってから、ちょうど30年後のことでした。
レース終盤、僕は観客が最も多いターン5で撮影していたのですが、ファンはトップを走るグラハムが目の前を通るたびに声援を送っていました。ゴール後、総立ちになって祝福するファンと、それに応えるかのようにグラハムはドーナツを披露。チームは無線で「残りのレースのためにドーナツはするなよ」と伝えていたのですが、彼は聞き入れませんでした。
地元で勝利するというのは、ほんとうに特別なことなんですね。(斉藤和記)
●決勝リザルト
●ハイライト映像