とうとうインディ・ジャパンが幕を閉じ、2011年のインディカー・シーズンも残り2戦となりました。残念ながら最後のインディ・ジャパンに行くことができなかったので、個人的にとても悔いが残っていますが、みなさんはロード・コースでのインディをご覧になっていかがでしたか? 「インディはやっぱりオーバルだろ〜」と言いたいのはみなさんも同じだと思いますし、いつの日かまたオーバルで復活して欲しいですよね。今回は僕自身の6回のインディ・ジャパンを振り返り、その舞台裏を少し書いてみたいと思います。
まず、インディカー・シリーズにデビューしたての2003年は、ずっと海外でレース修行をしていた僕にとって、日本で初めてのビッグ・レースでした。日本の家族や友人&スポンサー、そして新しく応援してくれるファンのみなさんに、初めてライブで走る姿を披露することになったわけです。しか〜し、その2週間前に開催されたフェニックスのレースで、僕は初めてオーバルの壁にヒットし(写真↑)、インディ・ジャパンの決勝まで頭がピヨピヨ状態(泣)。今思うと、どことなく空白の2週間でした。様々な事前イベントやインタビューでいっぱいのスケジュールが続いていたものの、何がなんだかわからないまま決勝に突入したような感じで、実はその時の記憶があまりないんです・・・。
クラッシュの影響なのか、もてぎに入るまでずっと頭痛がひどく、朝起きると二日酔いでもないのに頭がくるくる回っている状態。軽い脳震盪を起こしていたと思うのですが、その時に初めてオーバルの怖さを思い知りましたよ。今だから書けることですが、決勝日の朝に行われたドクターのテスト(集中力や脳の状況が正常であるかをチェックする)で、まったく集中できなかった僕はテストに落ちてしまったんです。なんとかメディカル・ドクターと交渉し、レースに出走することはできたのですが、またクラッシュを喫して壁に激突(写真↑)。幸いフェニックスほどひどくはなく、前回とは違う方向で壁にあたって脳がリセットされたのか、レース後はすっかり治っちゃいました!?!
あんまり覚えてないと書きましたが、不思議なことにファンのみなさんとの交流だけは、しっかりと思い出せます。ルーキーなのに多くの方々に声をかけていただき、応援してもらうことができて、ファンのみなさんがいるからこそレースができるんだと改めて実感した年でした。もうあの時から8年も経ちますが、応援し続けてくれているファンのみなさんには、ほんとうに心から感謝です!
2年目となった2004年は、シーズン・オフにシートを無くしてしまう試練が訪れ、必死の交渉でなんとかインディ・ジャパン記者発表会の前日に、レイホール・レターマン・レーシングと契約を交わすことができました。一生懸命スポンサー活動をした末に実現したインディ・ジャパンとインディ500の2戦契約。当時の相場でいくと当たり前の金額でしたが、今ならフル参戦できるんじゃない? っていうぐらいの額でした。
インディ・ジャパンがこの年の初レースとなった僕は、スポット参戦でいきなり乗っても十分なスピードを出せるんだということを、アピールするために必死でした。同時にスポットである以上、マシンを壊さないギリギリのところで走るテクニックを身につけたのもこの頃です。スポット参戦の場合最初のインパクトはとても大事で、最初のセッションでトップ10に入ることができ、少し達成感がありましたね。
しかし決勝ではパノス(当時はGフォース)の特性をうまくつかみきれず、淡々と走って11位フィニッシュとなってしまいました。悔しいことに、この年の結果が僕のインディ・ジャパンでのベスト・フィニッシュとなっています・・・。レース結果は納得できなかったものの、チームメートのバディ・ライスが優勝したその後のインディ500に向けて、大きな収穫を得ることができたレースでした。
ここだけの話、この年から参戦を開始した松浦孝亮選手は、ライバル的な存在でしたね。記者会見ではお互いに「あまり意識してません・・・」なんて強がってコメントしていましたが、実は絶対に負けたくないという意識があったと思いますよ(笑)。
3度目の参戦となった2005年は、今や僕の古巣のチームと言ってもよいドレイヤー&レインボールド・レーシング(DRR)からです。前年度のインディ500での走りを評価してもらったのと、ホンダからのサポートもいただき、またフル参戦で復帰することが実現したのです。もちろん、このシートを獲得するまでには色んな苦労があり、多くの方々にお世話になりました。
当時のDRRは今ほどコンペティティブではなく、戦闘力の無いマシンでどう戦うか、いつも悩まされていました。肝心のインディ・ジャパンでもぜんぜん話にならないほどのパフォーマンス不足で、レース中盤にメカニカル・トラブルでリタイア。地元で応援してくれたみなさんの期待に応える走りができず、ピットに戻った時、チーム・オーナーのデニスに「パフォーマンス不足でごめん」と謝られた時は、僕自身も悔し涙を流してしまいました(泣)。この時の絆が、未だに僕とデニスの信頼関係に繋がっていると思います。しかしながら、シーズン最後まで苦しい戦いを強いられ、翌年に再びシートを喪失してしまうことになったのです。
残念ながら2006年と2007年はインディ・ジャパンに参戦することができなくなり、インディ500に集中する年となってしまいました。2004年にスポット参戦して得た経験を生かし、いきなり助っ人として2006年と2007年のインディ500に参戦することになったのですが、良い走りを披露することができたと思います。
3年ぶりのインディ・ジャパンとなった2008年は、ベック・モータースポーツからの参戦(写真↑)だったのですが、この年はIRLとチャンプ・カーが統合した年でもあり、スポットでもインディ・ジャパンのシートを獲得するのはほんとうに大変でした。なんとかベックと話がまとまったものの、もてぎで走行を開始すると、今までに乗ったことがないほどの恐ろしいマシンでした(泣)。
迎えた最初のプラクティス、ターン1〜2のバンプでマシンは超ルーズな状態で、走行開始直後にいきなりスピンして終わってしまいそうになりました。決勝でもレース中に怖いと思ったのは初めてのことで、ブレーキ・トラブルでリタイア(写真↓)。とにかく思い出したくないレースです。2005年同様、応援してくれたファンのみなさんには、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
5回目の参戦となった2009年ですが、実はその前のシーズン・オフの間、僕の頭の中は“引退”の2文字でいっぱいでした。インディ・ジャパンで引退しようかどうかと悩みつつ、当時交渉していたスポンサーとうまく合意できたので、DRRとスポット参戦契約にサインしてインディジャパンの発表会へ。ところがシーズン半ばに入って、そのスポンサーが突然ドタキャンし、レースに参戦できない可能性が浮上してしまったのです。
最悪な状況に陥った中、ロジャー安川応援ファンドを立ち上げ、僕のレース参戦に向けて全力でサポートをしてくれたのは、長年お世話になっているUS RACINGでした。この年は、今までの中で一番厳しい年で、スポンサー活動を必死に行い、寝れない日々が続いてストレスもいっぱい溜まりました。この時に得た経験は、コース以外(特に今関わっている仕事)に役立っていると思っています。
ほんとうに最後のさいごまでヒヤヒヤ状態でしたが、なんとかみなさんのご協力、そしてDRRのオーナーのデニスのサポートもあり、レースに参戦することができました。この年は9月開催となった初年度で、インディカーのブランクは1年半。しかしそんなことはおかまいなしに、最初のプラクティスからガンガン攻めました。予選はいまひとつでしたが、決勝は今までで一番納得のいく走りができました。
残念ながらレース序盤でダンパーが折れてしまう不運なアクシデントに見舞われましたが、なんとかマシンを修復してもらうようチームに訴え、レースに復帰。コースに戻った時のグランドスタンドからの声援は、今も鮮明に覚えています。(マシンからもしっかり聴こえましたよ!)
コースに復帰したら、なんとマシンの調子はすごく良くなっていて、後半戦はトップ集団と同等のペースで走行できました。レースの結果としては何も残りませんでしたが、支援していただいたみなさんの名前をサイドポットの上に載せて走れたので、みなさんの気持ちと一緒に走ることができたと思います。自分にとっては、一番達成感のあるレースでした。
散々悩んでいた“引退”ですが、条件さえうまく整えばこれだけ楽しく走れるんだということを実感し、いつの間にか“引退”の2文字は頭から吹っ飛んでいました。たとえスポット参戦であっても、レースに向けてのチャレンジは続行していくぞと決めたのです。
僕にとって最後のインディ・ジャパン参戦となったのは、昨年のレースです。シーズン半ばの時点で空きのシートは無く、Takuのスポッターをしていたこともあり、参戦は厳しいなと思っていました。半分諦め状態に入っていたレース3週間前、突然コンクエストのシートが空くかもしれないという情報を入手。迷わずチームと交渉し、トントン拍子で契約できたのです。いったい去年の苦労はなんだったんだろう? と思うほど、すんなり決まっちゃいました(笑)。
またまた1年ぶりのインディ走行となったこの年も、第1プラクティスから全開走行! 予想以上にマシンのバランスが良かったおかげで、いきなりチームメートのバゲット君(通称パン屋さん)を上回る好タイムを出すことができました。「よっしゃ〜今回はいけるぞ」ってことで、マシンのセットをかなりアグレッシブにふり、第2プラクティスに突入。しかしとんでもないルーズな状態になって何度かスピンしそうになり、予選前にビビリが入ってしまいました。結局そこで崩したペースは決勝にも影響し、最後のインディ・ジャパンも淡々と走ってゴールするだけの内容となってしまったのです。
ということで6回の僕のインディ・ジャパン参戦を駆け足で振り返ってみましたが、いかがでしたでしょう。書きながら思ったのですが、インディカーで走り始めてからの8年間は、僕にとっての「人生」そのものだったなと思います。レース参戦に向けて全身全霊で取り組み、山あり谷ありの人生でしたが、そこで得た経験や出会いが今の僕を育ててくれたのだと実感し、感謝しています。
そして僕にとって何よりも大切なのは、ずっと応援し続けてくれたファンのみなさんです! 最後のインディ・ジャパンでみなさんに会えなかったのはほんとうに残念ですが、ドライバーとしての活動を辞めるつもりはないので、いつの日か必ずどこかのサーキットでお会いできるチャンスがあると思っています。
インディは僕の「夢」を叶えてくれるレースです。今後もアメリカン・モータースポーツに関わりながら、再び日本で僕の夢が叶う機会が訪れることを祈りつつ、がんばっていこうと思っています!
To all my fans! Thank you for your support and see you in the near future!!