Motegi Special

▼All Races Review あの時の興奮をもう一度!・・・1998年

All Races Review あの時の興奮をもう一度!・・・1998年




●フェデックス・チャンピオンシップ・シリーズ第2戦
バドワイザー500 3月26日〜28日
 





 1997年に完成した日本初の本格オーバル・コース、ツインリンクもてぎを舞台に初めて開催されたCART。まだ寒さの残る3月末、アメリカ最高峰のオープン・ホイール・レーシングがついに日本に上陸した。


 土曜日が決勝となるため、木曜日から始まったスケジュール。その初日は午前、午後のプラクティスともに、ホンダのエース格である1996年のチャンピオン、ジミー・バッサーがトップ・タイムをマークする。翌金曜日が雨となる予報を見たCARTは2グループ×45分間の午後のセッションを、120分間に延長してグループわけを廃止。予報どおり金曜日は朝から雨となり、プラクティス、予選ともに中止となってしまった。


 残念なことにオーバルならではのシングルカー・クオリファイは実現せず、前日のプラクティス順位がそのままスターティング・グリッドと化し、第1回目のポール・ポジションはバッサーとなった(予選を行っていないため、通常与えられる1ポイントは無し)。しかしそのタイム差はトップから0.5秒以内に17台が入る僅差で、コンペティションのレベルをまざまざと見せつける内容となる。





 前日の雨が嘘のように快晴となった土曜日、午後1時5分、30台のチャンプカーがいっせいにスタート。5万5000人の観衆から大歓声が上がる。グリーンとなってすぐにポールのバッサーをパスし、トップに立ったのはフェルナンデス。だが22周目にバッサーが抜き返し、同じホンダのド・フェランが2番手で各マシンが第1回目のピットを迎える。


 このピットを終えた時点で上位に進出したのは、14番、15番グリッドからジャンプアップしたアンドレッティとアンサーJr.。日本で大ベテランのふたりによるバトルが展開するも、1回目のピットで燃料が十分に入っていなかったアンドレッティは、燃料切れで後退を余儀なくされる。労せずしてアンサーJr.がトップにたったが、抜群の燃費で一番最後となる99周目に2回目のピットを行ったフェルナンデスが、ピッタリとマークしていた。


 この日初めてコーションとなったのは100周目、フィッティパルディのエンジン・ブローによるもので、グージェルミンのスピンも重なって13周もの間イエローが続く。アンサーJr.、フェルナンデスの順で再スタートして間もなく、117周目にフェルナンデスがトップに躍進。ルーキー時代の先輩だったアンサーJr.を従えて、3回目のピットもやはり一番最後となる159周目に入った。


 迎えたレース終盤、186周目にレイホールがターン2でクラッシュを喫し、横転。幸いレイホールは足への軽い打撲で済んだものの、イエローとなってレースはこのままフィニッシュするものと思われた。ところがオフィシャルの迅速な作業によって、レースは残り5周でグリーン。息を呑む最後のスプリント・レースが幕を明け、百戦錬磨のアンサーJr.がフェルナンデスに襲い掛かる。





 チャンプ・カーのレースを教えてくれた先輩の追撃を受けながらも、しっかりと最後までトップを守り切ったフェルナンデスが、記念すべき日本最初のウイナーに輝いた。2年前、ホンダ・ユーザーだった頃にトロントで初優勝をして以来、2度目の勝利だ。2位は1.086秒差でアンサーJr.が入り、3位はド・フェラン。フォード、メルセデス-ベンツ、ホンダと3メーカーが揃って表彰台にあがった。


●(714kb-pdf)フェデックス・チャンピオンシップ・シリーズ第2戦 バドワイザー500 決勝結果

 




●優勝したアドリアン・フェルナンデス(フォード/レイナード/ファイアストン)のコメント
 
「今、自分がここにいるのが不思議なくらい。というのも、昨日は夜から急に胃の調子が悪くなり、何を食べてもすぐに吐いてしまうほどだった。そんな状態で勝つことができたから、ほんとうにうれしいよ。これは僕にとってのオーバル初優勝で、CARTでは2勝目なんだけど、トップを争った後での勝利だけに、今回の方が充実した気分だ。初開催の日本ですばらしい勝利を得ることができたのは、一生の思い出になるだろうね」





●日本人ドライバーの挑戦

初開催のもてぎのレースに挑んだ日本人ドライバーは、ヒロ松下と松田秀士の二人。1990年からインディカー・シリーズへ参戦していたヒロ松下は、日本人ドライバーの先駆者として知られている。参戦9年目(115戦目)にして挑んだ最初で最後の凱旋レースは、最後尾からのスタートとなったが、着実な追い上げで16位フィニッシュ。一方、インディ500で当時の日本人最上位記録を持っていた松田秀士は、十分なテストができない状況での参戦だったが、18位完走という結果を残した。





ヒロ松下(トヨタ/レイナード/ファイアストン)のコメント:

「念願だった地元、日本でのCART初レースに参戦できてうれしかったが、12年間にわたってほとんどアメリカのレースを戦ってきただけに、パドックで日本のファンに声をかけられると不思議な感じがするのも事実。この『ツインリンクもてぎ』でのレースを含めて、自分に残されたレースはあと3戦。これまで応援してくれた日本のファンの期待に応えられるよう、持てる力をすべて出しきり、悔いのないレースを戦いたい」


松田秀士(フォード/スイフト/ファイアストン)のコメント:

「初日は車高とかスタッガーとかいろいろ試して、かなり手応えを感じたんだけど、もう少しというところでグレッグ・ムーアがクラッシュして、時間切れになってしまった。あと2セッション走れば、25秒台に入れたと思う。レースはいいペースで走れたんだけど、途中から燃料がエンジンまで来なくなって、ガス欠症状が出てきた。最後のほうは満タンにしてもダメだったくらい。悔しいね。なんとかして、もう1回出たい」


●プレイバック1998年〜シーズンレビュー〜

 ツインリンクもてぎにおいて、日本で初めてのオーバル・レースが開催された1998年、CARTシリーズも新たな時代を迎えていた。この年、長年に渡ってメインスポンサーだったPPGから運送業界大手のFedExになり、シリーズ名はFedExチャンピオンシップ・シリーズに改称される。また、CART創設当初の呼称であったチャンプ・カーが公式なマシン名となった。


 この年のエンジンはホンダ、トヨタ、フォード、メルセデス-ベンツと4メーカーが参戦し、シャシー・コンストラクターはお馴染みのレイナードとローラに加え、アメリカのスイフト、自製シャシーのペンスキー&イーグルの5社が参戦。タイヤはファイアストンとグッドイヤーが供給していた。


 シリーズは前年の17戦から日本のもてぎとヒューストンのストリートが加わり、全19戦へ拡大。3月15日にマイアミのホームステットで開幕し、世界4カ国を転戦して11月1日のフォンタナで最終戦を迎える。初開催のもてぎは3月28日の第2戦目となった。
 

 1996年と1997年を2連覇したチップ・ガナッシは、前年とかわらないバッサー&ザナルディのチャンピオンコンビでシーズン・イン。ニューマン/ハース、レイホールなどのトップチームも前年とかわらない布陣だ。トレイシーを解雇したペンスキーは、後釜にホンダ初優勝ドライバーのリベイロを起用。チーム・グリーンがトレイシーと契約し、フランキッティとコンビを組む。日本人ドライバーではヒロ松下が前年同様アルシエロ-ウエルズから参戦し、インディ500経験者の松田秀志が初開催となるツインリンクもてぎに参戦した。


 シーズンは前年同様、チップ・ガナッシが圧倒的な強さを見せることになった。開幕戦とホンダの地元であるもてぎのレースは落としたものの、第3戦のロング・ビーチからはザナルディとバッサーが勝ち星を重ね、シリーズを席捲していく。中盤の第12戦から第17戦にかけて勝利から遠のく場面も見られたが、残り4戦を残したところでザナルディが早々と2年連続のタイトルを獲得。さらに終盤の2戦では、第18戦のオーストラリアでザナルディが、最終戦のフォンタナでバッサーがそれぞれ勝ち星をあげ、チップ・ガナッシが3連覇を成し遂げた。


●(16kb-pdf)フェデックス・チャンピオンシップ・シリーズ第2戦 バドワイザー500 出場者リスト


●1998年トピックス?
世界に誇る日本の本格オーバルの誕生





 シリーズの第2戦として、日本で初開催されたCART。日本で繰り広げられた世界最高のオーバル・レーシングの舞台となったツインリンクもてぎのスタートは、それからさらに10年前の1988年のことだった。


 ホンダ社内に“モビリティ・ワールドもてぎ(当時の仮称)”を検討するMTプロジェクトが発足したのは3月で、12月の栃木県県政記者クラブにおいて、初めてその内容が公にされた。つまり、この時点で栃木県芳賀郡茂木町となることがほぼ決まっていたのだが、当時はまだロード・コースのプランでしかなった。


 1990年2月、ホンダ本社内に“?ホンダモビリティ・ワールド”が設立され、翌年の10月に開発許可申請を栃木県に提出。平行してオーバルを加える案が検討されるようになる。当時の社長、小林 修は「参加型のモータースポーツを提言できる場としてアメリカに注目し、その象徴ともいうべき本格オーバルを加えました。すでに日本には8つの国際格式サーキットがあり、同じようなものを作る必要はないので」とその理由を語っている。


 ホンダがCARTに参戦を開始したのが1994年。1月に会社名が現在の“?ツインリンクもてぎ”となり、オーバルとロード・コースを組み合わせた(ツインリンク)構想が明らかとなる。栃木県から開発許認可も下り、翌月、栃木県に工事着工届を提出し、造成準備工事に着手。12月にコースレイアウトをオーバル&ロードコースに変更した開発変更申請書が県に提出された。


 本格的な造成工事が始まったのは1995年1月のことで、山を削って谷を埋め、フラットな敷地を作ることから始まった。広大な土地にレース・トラックが作られているアメリカ、いや世界中で見ても、このような発想はなかなかあるものではない。


 ホンダが初めてタイトルを獲得した1996年。11月にCARTと“PPGインディ・カー・ワールド・シリーズ”の公式戦を1998年春に開催する契約が締結された。同じタイミングでCARTの3大タイトル獲得報告会が都内のホテルで行われ、招待された全ホンダ・ドライバーとチーム・オーナー、それに当時のCARTのCEOであるアンドリュー・クレイグらがコースを視察。山を登るようにしてグランドスタンドに着き、眼下に広がるコースを見た誰もが驚かずにはいられなかった。


 1997年8月に待望の開業を迎えたツインリンクもてぎ。そのオープニング・セレモニーでジミー・バッサーが初めてチャンプ・カーを走らせ、11月にはチームを招いて事前テストが行われた。本場アメリカにも皆無なウルトラ・スムーズな路面や、コースの最新設備に感嘆の声が上がり、オーバルの新しい世界基準となったのである。


●1998年トピックス?
 
ザナルディが打ち立てた記録





 ベスト・ドライバーのひとりとして、多くの人々がその名をあげるアレックス・ザナルディ。アグレッシブな走りやドーナッツ・ターンなど、多くの伝説が語り草となっているが、実際にどれほどの強さを誇ったのだろうか。彼の残した記録を検証してみよう。


 伝説の始まりとなった1996年にルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得し、1997年と98年にドライバーズ・タイトルの連覇を達成。CART時代に2年連続でチャンピオンをゲットしたのは、1981-82年のリック・メアーズと、1986-87年のボビー・レイホール以来となる3人目である。ザナルディ以降は2000-01年にジル・ド・フェランが獲得したに留まり、史上わずか4人だけ。1998年の4戦を残してのタイトル獲得は史上最速で、それまでは1981年にメアーズが3戦を残してタイトルを決めたのが最速記録だった。


 通算の優勝回数である15勝の内訳は、1996年に3勝、1997年に5勝、圧倒的な強さを誇った1998年にいたっては7勝を記録し、表彰台に上ること15回の新記録を作った。デトロイトからトロントまでの4戦連続制覇もタイ記録。1996-98年の3年間はトータルで51レースに参戦しており、0.294という無敵の勝率を叩き出している事になる。


 予選での強さもデータに現れており、ポール・ポジションは全部で10回。1996年のミド−オハイオから翌年のサーファーズ・パラダイスまでの6戦連続ポール・ポジションに、1996年のポートランドから1997年のロング・ビーチまでのフロント・ロー獲得連続11回は、これまた史上最多である。


 4年間にトータルで積み上げたポイントは、合計639点。1996年に132、97年に195、CARTに復帰した2001年はわずか24ポイントに留まるが、1998年に記録した285ポイントは、レコードとしていまだに破られることのない金字塔となっている。


 その強さを証明する記録の数々だが、彼の魅力は数字だけに表れるものではない。強さを誇示することなくエンターテイメントに徹した姿勢や、前向きな生き方そのものこそが、人々を魅了してやまないのである。


●1998年トピックス?
インディ・ライツで活躍する日本人ドライバー


 日本メーカーの参戦や日本でのレース開催などで、いっきに注目を集めるようになったCARTへ、続々と日本人ドライバーも参戦を開始するようになった。


 それまでヨーロッパを活動の拠点とし、イギリスF3や国際F3000で活躍した後、F1にもスポット参戦していた野田英樹は1996年に渡米。インディ・ライツへの参戦を開始し、第9戦トロントで日本人初の表彰台となる3位を獲得した。




 フル参戦2年目となった翌1997年のポートランドでは、日本人で初めてとなる優勝をマーク。この年チャンピオンとなったカナーンや、ランキング2位のカストロネベスを従えての勝利だった。翌年、カナーンとカストロネベスはチャンプ・カーへステップ・アップするが、ランキング9位に終わった野田は日本へ帰国して、フォーミュラ・ニッポンに参戦することを決める。

 ヒロ松下同様、アトランティック・シリーズを選んで1995年に渡米したのは服部茂章。2年目の1996年からはインディ・ライツへと参戦するようになり、3年目のこの年、開幕戦のホームステッドで初優勝を遂げる。この年にチャンピオンとなった2002年のCART王者、ダ・マッタを下しての勝利だった。



 日本人がオーバルで勝ったのは初めてのことで、“勝ち方”を学んだ茂章はゲートウエイでオーバル2勝目をマーク。翌年ステップ・アップして日本への凱旋を果たした。1996年にフォーミュラ・ニッポンでランキング2位を獲得した服部尚貴は、翌1997年から参戦し、2年目のシーズンに3回の表彰台を獲得。優勝は成らなかったが、翌1999年からのステップ・アップが決まる。ところが開幕戦でタービュランスによりクラッシュを喫し、休戦を余儀なくされてしまった。