Motegi Special

▼All Races Review あの時の興奮をもう一度!・・・2005年






All Races Review あの時の興奮をもう一度!・・・2005年








 





●IRLインディカー・シリーズ第4戦
ブリヂストン・インディ・ジャパン300 4月28日〜30日





 2005年のもてぎは週末を通じて快晴に恵まれ、決勝日は気温23度と絶好のコンディションとなった。グリーン・フラッグが振られると同時に、2番手スタートのダニカ・パトリックが果敢に前に出て、見事にホール・ショットを奪ってみせる。ところが後方でこのレースがデビュー戦となったジェフ・バックナムがスピンし、このもてぎからダラーラ・シャシーを投入したスコット・ディクソンが巻き込まれてクラッシュ。レースは12周目に再開されたものの、今度はアレックス・バロンのスピンで、イエロー・フラッグと波乱を予感させる幕開けとなった。





 序盤の主役は、スタートから18周目までトップをキープしたパトリックだ。一度はサム・ホーニッシュJr.のパスを許すも、33周目に再び首位を奪還。2001、2002年の連続チャンピオンを相手に堂々たるバトルを演じて、トップクラスで戦う実力があることを存分にアピールした。





 レースが4分の1を消化しようという47周目、ついにパトリックを攻略したのは予選8番手から追い上げてきたダリオ・フランキッティ。背後にはブライアン・ハータ、トニー・カナーン、ダン・ウエルドンらホンダ勢のエース、アンドレッティ・グリーン・レーシングの面々が続く。4人はチームメイト同士で激しいバトルを展開し、全員が一度はレースをリードする仕上がりのよさ。ところが122周目のリスタートで事件は起きた。ターン3の進入で首位を行くフランキッティのインへウエルドンがダイヴ。あろうことかタイヤかすに乗ったフランキッティはウォールに激突してしまった。合計67周と最多リードラップを記録し、誰の目にも最速だったフランキッティがここでリタイアに終わる。





 かくしてウエルドンがトップに浮上。139周目にエド・カーペンターのクラッシュで実に7度目のコーションが出され、全車ピットへ向かう。そして、何度もトップが入れ替わっていた激戦が、ここから燃費レースと変貌することになる。





 上位陣はタイヤを交換せず、燃料だけを補給してコースへと復帰。いよいよ残り50周でグリーンとなり、それぞれフル・タンクで走りきれるかどうかのきわどい周回数となった。すかさず一気にトップへと躍り出たトーマス・シェクターが、追いすがるカナーンを突き放してリードを拡大。もし、シェクターがトップのまま終盤に大事故が発生したら、たった1台のシボレー・エンジンが優勝する可能性がでてきた。


 


 このまま最後まで走りきれるのか、それとも土壇場で燃料を補給するのか。周回数が減るたびに緊張感が高まっていくなか、5番手につけていたホーニッシュJr.が上位勢では最初にピットへと飛び込んだ。その時点で残り7周。燃費に絶対的な自信を持っていたトヨタだったが、意外なほど早いピット・インとなった。かたや依然コースに留まるトップ・グループにとっては、一刻も早くコーションが出てほしいところだが、150周の間に7回も発生したイエローはぱったりと出ない。たまりかねて2番手のカナーンがピットに向かったのは、残りわずか2周。と同時に、トップを快走していたシェクターがメイン・ストレートでまさかのスローダウン。パンサー・レーシングのイチかバチかの賭けは失敗に終わり、シェクターは開幕以来4戦連続のリタイアとなった。





 目前のふたりが姿を消し、トップに繰り上がったのは3番手を走っていたウエルドン。燃料が最後まで持つかはかなり微妙なところ。後ろにはウエルドンよりあとに給油しているバディ・ライス、そしてトヨタ勢のエリオ・カストロネベスが控え、迎えたファイナル・ラップ。ひたすら燃費走行に徹していたウエルドンは、カストロネベスがトラブルを抱えた僚友のホーニッシュJr.が撒き散らしたオイルに滑ってクラッシュしたことにより、8度目のイエローが振られるなか、Vサインを掲げながら悠々とゴールした。ウエルドンは1999年のアドリアン・フェルナンデス以来、2人目となるもてぎ2連勝を達成し、ホンダも地元でうれしい2勝目を飾った。


●(16kb-pdf) IRLインディ・カー・シリーズ第4戦 ブリヂストン・インディ・ジャパン300決勝結果





●優勝したダン・ウェルドン(ホンダ/ダラーラ/ファイアストン)のコメント
「日本で2連勝できるなんて、ほんとうに嬉しいよ。序盤はハンドリングが少しアンダーステアだったけど、ピット・ストップで調整を加えたら、マシンが本来のスピードを取り戻してトップ争いに加わって行くことができたんだ。140周目以降が燃費による戦いになってからは、ピットとラジオでたくさん交信をしながら、できる限り燃料をセーブして少しでも上のポジションでゴールすることを目指した。ピット・ストップでの作業時間を短縮しようとタイヤ交換を行わなかったから、タイヤを酷使し過ぎないように注意しながら走ったよ。今日はアンドレッティ・グリーン・レーシングの4人全員がトップを走った通り、僕たちは素晴らしい力を備えたチームとなったね。そしてもちろん、ホンダ・インディV-8がベストのパワー、ベストの燃費を僕らに与えてくれ、それが勝利に繋がったんだ」


●日本人ドライバーの挑戦



 2005年は前年にルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した松浦孝亮と、3回目のもてぎ挑戦となるロジャー安川が出場した。松浦は予選9位からスタートし、序盤はトップ10をキープする。しかし1回目のピットストップでトラブルが発生し、後退。激しい追い上げを見せるものの9位で終わった。一方の安川はピット戦略がはまり、一時は3位を走る。ところが113周目、突如エンジンから白煙が上がり、バックストレートでストップ。安川の3年目の挑戦は悔しい結果で終わった。





松浦孝亮(パノス/ホンダ/ファイアストン)のコメント
「9位は悔しい結果ですね。今日はほんとうに悔しいレースとなりました。序盤のリスタートでスピンしかけ、大きくポジションを下げた後、ピット・インでは燃料の補給に時間がかかってしまって、コースに戻ったらトップを走っているダリオ・フランキッティの後ろになってしまい、周回遅れになってしまいました。そこからは、何とかして周回遅れから脱出すべく走り続けました。マシンの調子は良く、7位まで追い上げることができたのですが、ピット・ストップを行なったタイミングから残り数周というところで最後のピットインをしなければならず、9位でゴールしました。次のインディ500では予選でキッチリと上位に入り、レースに向けて良いマシンを作り上げ、全力で戦いたいと思っています」





ロジャー安川(ダラーラ/ホンダ/ファイアストン) のコメント
「マシンのトラブルによるリタイアとなってしまってほんとうに残念です。今年でインディ・ジャパンは3回目の参戦でしたが、まだ一度も自分のパフォーマンスを見せることができていません。それはほんとうに悔しいことです。走行初日からストレートでスピードの伸びない原因不明のトラブルが自分のマシンには出ていて、それが負担をかけることとなっていたのか、エンジンが壊れてしまいました。ドレイヤー&レインボールド・レーシングはインディ500に向けて専用のマシンをすでに用意しているので、次のインディ500は、過去2年連続でトップ10入りをしていますし、それ以上の成績を残すよう全力を挙げます」


●プレイパック2005年〜シーズンレビュー〜



 発足から10年目を迎えたIRLインディカー・シリーズ。レースは1戦増えて全17戦となり、シリーズ誕生10年目にして、初めてオーバル以外のコースでレースが行われた。スケジュールはナザレスがはずれ、テキサスが年一戦となる。一方で、第3戦のセント・ピーターズバーグ(ストリート)、第14戦のインフィネオン・レースウエイ(ロード)、第16戦のワトキンスグレン・インターナショナル(ロード)の3レースが新たに加わった。開幕戦は例年通りホームステッドで行われ、もてぎは4月30日にスケジュールされる。最終戦はテキサスからカリフォルニア・スピードウエイとなった。


 2004年チャンピオンのトニー・カナーンが在籍する、ホンダ・エンジンのアンドレッティ・グリーン・レーシングは、前年と同じく4台体制を敷き、カナーン、ブライアン・ハータ、ダン・ウエルドン、ダリオ・フランキッティの4人全員が残留した。もうひとつのホンダ・エンジン勢の強豪であるレイホール・レターマンは、バディ・ライスに加えて紅一点ダニカ・パトリックとビットウォール・メイラを起用。3台体制となった。


 トヨタ勢のペンスキーは、エリオ・カストロネベスとサム・ホーニッシュJr.が続投。一方のチップ・ガナッシは3台体制となり、スコット・ディクソン、ダレン・マニンに加え、ライアン・ブリスコーが3台目のシートに収まった。唯一シボレー・エンジンを搭載するパンサー・レーシングは、トーマス・シェクターとトーマス・エンゲの布陣。日本人は松浦孝亮がスーパー・アグリ・フェルナンデス・レーシングから、ロージャー安川がドレイヤー&レインボールド・レーシングから出場した。




 

 前年同様、2005年はホンダ勢が全17戦中12戦を制する圧倒的な強さを発揮。中でもアンドレッティ・グリーン・レーシング(AGR)の活躍が目立ち、ホンダが挙げた勝利のうちの10レースで優勝を手にした。タイトル争いもAGRのカナーン、ウエルドン、フランキッティを中心に繰り広げられる。トヨタ勢からは唯一ペンスキーのサム・ホーニッシュJr.がその中に加わっていったが、結局チャンピオンの栄冠に輝いたのは、2003年のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したAGRのウエルドンだった。


 ウエルドンは12台がリタイアするサバイバル戦の開幕戦を制すると、第3戦から怒涛の3連勝。2年連続でもてぎウイナーとなり、翌戦のインディ500までも制覇したウエルドンは、一気にポイント・スタンディングスでライバルたちを引き離す。第6戦はパンサー・レーシングのトーマス・シェクターが優勝。このシーズン限りでの撤退が決まっているシボレー・エンジンが2年シーズンぶりに勝利を挙げる。第6戦からカストロネベス、カナーン、フランキッティがそれぞれ勝ち星をあげ、第10戦でホーニッシュJr.が第2戦以来の2勝目。第11戦はハータが制し、2003年のもてぎウイナーであるスコット・シャープが第12戦で優勝した。


 ライバルたちが勝ち星を分け合ったおかげで、ウエルドンは追い詰められることはなく、タイトル争いを優位に進める。第13戦でインディ500以来の勝利を飾ったウエルドンは、翌第14戦をチームメイトのカナーンに譲るも、第15戦で優勝してシーズン6勝目。続く第16戦は5位に入り、残り1戦を残して2005年のインディカー・タイトルを手中におさめた。ウエルドンはただ一人だけシーズン3勝以上を挙げる活躍。2005年は彼の強さが特に際立つシーズンとなった。


●(13kb-pdf)IRLインディ・カー・シリーズ第4戦 ブリヂストン・インディ・ジャパン300 出場者リスト


●2005年トピック
吹き荒れるダニカ旋風



 彼女はまさに彗星のごとく現れた。2005年のもてぎでトップを快走したのは、女性ドライバーのダニカ・パトリック。シーズン序盤3戦まで凡走していたルーキー・ドライバーが、第4戦のもてぎで実力を発揮する。予選2番手からスタートしてホールショットを奪うと、18周目までトップを快走。ピット戦略でいったん順位を落とし、33周目に再びトップに立つと、2年連続チャンピオンのホーニッシュJr.と熾烈なバトルを繰り広げた。結局4位でフィニッシュするが、若干23歳、しかも女性ドライバーが強豪ぞろいのインディカーでレースリーダーとなったことに、レースを観た誰もが彼女に釘付けになったはずだ。


 続く第5戦は伝統のインディ500。約1ヶ月かけて行われるこのイベントでも、プラクティスでトップ・タイムを叩き出すなど、彼女の走りは冴え渡る。迎えた決勝、予選4番手からスタートしたパトリックは、もてぎと同様トップ争いを演じ、レース終盤となる172周目からレースリーダーに躍り出た。いったん186周目にウエルドンにトップを譲るが、残り11周の190周目で再びトップを奪取。このまま優勝してしまうのかと思ったが、燃費が厳しくなったパトリックは、無念のペース・ダウンを強いられた。栄冠はウエルドンのものとなり、パトリックは4位でレースを終えるものの、インディ500という大舞台での活躍によって、彼女の名前は全米に広まることとなる。





 インディ500史上初めてレースをリードする女性ドライバーとなったパトリックの活躍は、前戦もてぎでの好走が決してまぐれではないことを示してみせた。残りのシーズンで自己ベスト・フィニッシュを更新することは出来なかったものの、カンザス、ケンタッキー、シカゴではポール・ポジションを獲得。大差で2005年のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。

 
 突如としてインディカーのスターダムを駆け上がったパトリックだが、その速さにはちゃんとした裏づけとなるキャリアがある。ダニカ・パトリックは1982年、アメリカはウィスコンシン州生まれたパトリックは、10歳からカート・レースを始めた。1997年に世界カート協会グランド・ナショナルのHPVクラスでチャンピオンを獲得すると、16歳でイギリスへ留学。4輪レースの登竜門であるフォーミュラ・ヴォグゾールやフォーミュラ・フォードに参戦する。世界各国の競合が集まるフォーミュラ・フォード・フェスティバルでは2位を獲得し、この速さが1986年にインディ500を制覇したボビー・レイホールの目に留まることになった。


 レイホールに見出されたパトリックは、2002年にアメリカへ戻り、バーバー・ダッジ・シリーズに参戦。翌年はフォーミュラ・アトランティックへステップ・アップを果たし、初年度からチャンピオンシップ・ランキング6位に食い込む。翌2004年は、女性ドライバー初となるポール・ポジションを獲得するほか、全12レース中、最高位の2位を含む10レースでトップ5フィニッシュを達成。ただひとり全レースを完走する安定感もあり、ランキング3位に食い込んだ。その活躍が認められ、晴れて翌年のレイホール・レターマン・レーシングのシートを掴み取り、2005年の活躍へと繋がった。


 インディ500でいちやくスター・ドライバーの仲間入りを果たしたパトリック。ルーキー・オブ・ザ・イヤーを勝ち取るほど速い上に、ファッション誌などのモデルをつめるほどの美貌も持ち合わせていることが、全米中の注目を集め、彼女の人気を不動のものにした。アメリカで最も有名なスポーツ雑誌のひとつである“スポーツ・イラストレイティッド”では、インディカー・ドライバーとして24年ぶりの表紙を飾り、USAトゥデイやUSスポーツ・アカデミーが主催する“一年でもっとも活躍した女性アスリート”にも選ばれる。インターネットでの検索数も軒並み上昇。2005年にヤフーで“もっとも検索されたアスリート”の3位にランクインし、各種雑誌にもひっぱりだことなった。


 また、パトリックの活躍はインディカーを再び脚光の浴びるシリーズとした。彼女がトップを快走したインディ500の視聴率は前年比の40%もアップし、シリーズ発足間もない1997年以来最も高い視聴率を記録。観客動員数も増加し、パドックのパトリックのガレージはいつも人だかりとなっている。シリーズもパトリック人気の恩恵を受けたのは確かだろう。IRLの社長であるバーンハードも「全米からの注目はパトリックのおかげだ」と認めた。





 しかし、こうした人気を獲得してもパトリックのレースに対する姿勢はまったく変わらない。「ただ勝ちたいだけ」と常に勝利を目指してレースに挑み続けている。2006年は苦悩のシーズンを送るが、2007年はチャンピオン・チームであるアンドレッティ・グリーン・レーシングに移籍。万全の体制を整え、3年目のシーズンに初勝利を狙う。


 これまで女性ドライバーが自動車レースの最高峰シリーズに参戦することはあっても、活躍した例は少ない。まして勝利を掴むことはさらに難しく、レースではないが、1982年にミシェル・ムートンがWRCで勝利し、チャンピオンシップ2位を獲得したことぐらいだろう。オープン・ホイールではイギリスのローカルF1シリーズ、“オーロラF1”でデザイア・ウィルソンが優勝を挙げているものの、最高峰シリーズで勝利したものは誰ひとりとしていない。ダニカ・パトリックがその最初のドライバーとなるか、今後も彼女の活躍から眼が離せない。