Kazuki Saito's

“チャンプ・カー北の国へ” 日本初・公道グランプリ開催への道! 第10歩>>小樽GP計画を推進できるのは誰だ

運河の浄化に取り組んでいたNPO団体が
公道レース計画に興味を持った理由とは!?
 2002年11月にマカオを視察し、2003年3月にシンポジウムを開いて「小樽グランプリ10年構想」を宣言した北海道みちとくらしと未来のネットワークは、地元小樽でこのプロジェクトを推進できる団体探しにとりかかった。
 
 しかしながら、公道を使った自動車レースという、あまりの壮大さにどの組織も難色を示し、なかなかいい返事が得られない。やがて半年が過ぎようとした夏、“NPO法人 潮騒の街 小樽”という団体に辿り着く。
 小樽の観光名所である運河の浄化をきっかけに、2001年に結成されたこの組織は、街づくりや環境、防災、社会教育などをテーマに様々な活動を行っていた。2003年8月、両者は初めての会合を持つことになる。
 「ほんとうに暑い日だったのを覚えています。我々は6〜7人で行ったのですが、さすがにすごい話でしたので、最初はあまりピンとは来ませんでしたね。でも、できるかどうか解らないけど、まじめに取り組んでみたいとは思いました」と潮騒の街 小樽の理事長、木下 修さんは当時を振り返る。
 「それまでレースにはまったく縁がなかったし、興味もなかったですね」と語る木下さんが、「まじめに取り組みたい」と考えたのはなぜか。
 「我々は運河の浄化に取り組み、カキなどの貝がまた着く様になって、みなさんにとても喜んでもらうことができたんですが、そんなことをやっていくうちに、やはりこの街が生き残るためには観光しかないということに気づきました。観光資源をどうやって有効に生かすか、どうやってリピーターを多くするかということを、考えるようになっていったわけです。ちょうど我々も起爆剤になるようなものを探していたので、グランプリの話はすごいなと思いましたね」
 小樽で生まれ育った木下さんは、地元の将来を案じていた。北海道でも屈指の観光都市であり、約750万人の観光客が訪れていたが、それはあくまで表面的な話。厳しい現実が、もう目の前にまで迫っていたのである。

筆者近況
長年に渡って日本のレースをプロモートされてきた本田耕介さんに、小樽グランプリの現状を説明させていただく。2度目の会合。かつて本田さんは別府や横浜の公道レース・プロジェクトに関わっていたそうで、当時の話しを拝聴。最大の難関は、やはり警察か。週末はフォーミュラ・ニッポン最終戦の鈴鹿へ。ジャパン・レスキュー・クラブ理事長の室賀良久さんからも、貴重な話をたくさん聞かせていただいた。
(オートスポーツ誌 2005年12月15日号に掲載)