CHAMP CAR

●チャンプ・カーの北海道小樽市視察レポート 

<US-RACING>

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ジェラルド・フォーサイスやポール・ジェンティロッツィらとともにOWRSを設立し、CARTの資産を購入してチャンプ・カー・ワールド・シリーズの新しいオーナーとなったケヴィン・カルコーヴェン。その彼が小樽に行きたいというメールを、社長のディック・アイズウィックから受け取ったのは2月16日のことだった。2月25日に韓国のアンサン市でレース開催を発表するセレモニーがあり、その後に開催地の候補である北京を視察してから、小樽に寄りたいという。移動はすべてカルコーヴェンのプライヴェート・ジェットで、直接千歳空港に入るというのがその内容だった。同行するのは中野信治や高木虎之介のチーム・オーナーだったデリック・ウォーカーと、昨年副社長に就任したばかりのジョー・クルネリッチ。彼は新しい開催地を探しだすことや、年間のレース・スケジュール作成、地元政府との交渉などがその仕事だ。また、カルコーヴェン自身の会社のCFO(最高財務責任者)で、いわゆる金庫番ともいうべき人物に、二人の専属アシスタント、他にパイロット二人とフライト・アテンダントの総勢9名で来るという。最初はカルコーヴェンやクルネリッチだけと聞いていたのだが、さすが自家用ジェットを持つ(自分でも操縦する)ビリオネアであり、御付きがいないわけがない。
なぜ突然このような話しになったのか、そのきっかけは昨年4月の開幕戦、ロング・ビーチまで遡る。この時にカルコーヴェンにインタビュー(US-RACING本誌の3号と4号に掲載)をしたのだが、その際に「環太平洋のマーケットはとても重要だ。ぜひ日本でのレースを復活させたい」と彼が語ったことに始まる。かつて日本企業(古河電工)をパートナーにしていたこともあるカルコーヴェンは何度も日本を訪れており、「日本はモータースポーツにおいて長い歴史を持ち、大勢のファンがいる。この日本でまだ実現できていないストリート・コースでレースをやれば、絶対にいける」という確信を彼は抱いていた。
これまで日本で何度も企画が立ち上がっては、消えていった公道レース。その現実を知っていただけに、「絶対に無理だと思う」とそのときに彼に話したのだが、後になって、過去にオートスポーツ誌で“小樽グランプリ”の特集があったのを思いだすことになる。北海道小樽市が公道レースの実現を目指すべく、シンポジウムなどを開催して相当積極的だということがそこには記載されており、その推進協議会の会長が小樽市長だということに、かなり真剣さを感じた。加えて、小泉内閣が2004年に日本全国の自治体に募集した“地域再生計画”に、この小樽GPが目玉として認定されていた事実にも驚く。つまり、政府が公道レースの実現を、バック・アップするというのだ。
早速これらの内容を社長のアイズウィックに伝えたところ、彼らが小樽に対して非常に興味を持ったのは言うまでもない。しかし小樽という街がどういうところなのか、チャンプ・カーのレースをやれるだけの環境があるのかどうか、まったく解らなかった。そこでチャンプ・カーから依頼を受けて小樽を視察することになり、小樽GP推進協議会の方々にも会うことになる。8月末のことだ。
千歳空港から約1時間、200万人が住む大都市札幌から30分ほどの小樽市は、日本の古きよき雰囲気が漂う美しい街だった。日本だけでなく、アジアやロシアなどから年間850万人もの観光客が集まるという。肝心の道路に関しても、12年以上チャンプ・カーを見てきた自分が見る限り、けっして不可能ではないということをその時に感じた。北海道は雪が多く、除雪をするために道幅はかなり余裕をもって作られているのだ。
市内にある協議会の事務所には、理事長の木下 修氏をはじめ、6名の方が集まっていた。当初、F1開催を目指していた小樽GP推進協議会だが、「開催するのに70億もいると聞き、富士スピードウエイも完成するだけに、F1は難しいと考えていました」と木下氏。そこでチャンプ・カーの説明をし、彼らの希望をそのまま伝えたところ、とても興味を持っていただくことになる。
これまでマカオや上海サーキットには視察に行ったことがあるそうだが、ぜひチャンプ・カーも見てみたいということになり、それはやがてオーストラリアのレース視察へと繋がった。協議会のひとりである北海道テレビ放送の濱中貴満氏が来ることになり、カルコーヴェンやアイズウィックらを紹介。地元プロモーターへのインタビューや、テンポラリー・コースがいかにして街にできるのかを一緒に見て回った。
チャンプ・カーはオーストラリアまでやってきた協議会の濱中氏を歓迎し、彼の話から「小樽GP実現の熱意を十分に感じ取った」とアイズウィック。これでチャンプ・カーもいよいよ本気になり、機会があればぜひ小樽を訪れたいということになる。やがて新年を迎え、冒頭のとおり、その吉報が彼らから届いたのは2月16日のことだった。早速木下氏や濱中氏に連絡したのだが、来るまでに2週間しかないという現実に、全員が慌てたのは言うまでもない。
それも彼らは3月2日の21時に到着して、3日の21時にはアメリカに向けて出発しなければならないという。あいにく、北海道は例年にないほどの大雪で、飛行機が欠航となることもしばしば。「カルコーヴェン用にはスイートルームを予約してください」というアシスタントのリクエストに妙に納得したまでは良かったが、この時期の千歳空港に、自家用ジェットを一晩泊めることができないことが判明した。「いつ大雪となるか解らないため」というのがその理由だ。
ならば函館か旭川か、それともいったん仙台あたりに入って国内線で千歳へ入るか、などと色々考えつつ各空港へ連絡を開始する。同時に自家用ジェットなどを専門にハンドリングする会社(飛行機の誘導や整備、税関、入国審査への案内等を行う)に依頼して状況を説明し、「小樽市長を表敬訪問するのでなんとかならないでしょうか?」ということで千歳空港に頼んでもらい、待つこと一日。そのハンドリング会社の交渉によって、なんとか飛行機を一泊することが可能となる。
小樽グランプリ推進協議会は、カルコーヴェンの来日が決定して間もなく、協議会の会長である小樽市長へと連絡してスケジュールをおさえていた。そのような迅速な行動が幸いしたわけで、今回の目的がただの視察であれば、絶対に不可能だったろう。他にも協議会のスタッフは、カルコーヴェンやクルネリッチらの講演会を企画し、地元メディアに対する広報活動や、資料作りなどを短い時間内に遂行した。小樽グランプリを実現したいという協議会の熱意を、ひしひしと感じる。
その様子をアイズウィックに逐一報告したところ、「自分もアメリカから小樽だけに行く」と言い出したが、どうしてもスケジュールがうまく調整できずに断念。ウォーカーも急用があって来ることができなくなり、8名となった。

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ラッキーなことに、3月2日当日は朝から快晴となり、無事に北京を出発したという報告を受ける。およそ3時間のフライトを経て、午後8時、一行は無事に千歳空港へと到着。28人乗りのマイクロバスに乗り、小樽のヒルトンホテルに到着したのは午後9時30分を回っていた。

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それからすぐに食事へ向かい、協議会の人々と一緒に遅いディナーとなる。カルコーヴェンは大の日本食好きで、まずはサッポロ・ビールで盛大に乾杯。小樽名物のお寿司とてんぷらに舌鼓を打ち、すぐに日本酒にスイッチする。なんでも彼は自分の飛行機の中に“日本酒セット”を用意しているらしく、「こんなにいいコミュニケーション・ツールはない」というほどの日本酒ファンだった。まさに“さしつ、さされつ”で盛り上がった宴会だが、翌日の打ち合わせを軽くして11時30分にはホテルへ。だがこれで終わるカルコーヴェンではなかった。

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すぐにホテルのバーへとスタッフを連れ出し、またもや日本酒で“さしつ、さされつ”。カルコーヴェンをよく知るアシスタント二人や金庫番が次々と退散していくなかで、何も知らないわれわれだけが残ることとなった。まだ次の日の打ち合わせが残っていた我々は焦りつつ、午前1時を回ったあたりでようやくお開き。最後のミーティングを済ませて部屋に戻ったのは2時頃だったが、クルネリッチからの要請で、急遽翌日のステージに一緒に上がることになった僕はそこから原稿書き。「チャンプ・カーと日本のこれまで」を説明して欲しいということだが、文字にはできても、しゃべるのは・・・・・・。緊張のあまり、4時ごろに気絶してしまう。
「朝食はいらない」と言っていたカルコーヴェンを除き、午前8時より朝食をとりながら一日のスケジュールを説明して9時に出発。のはずが、9時になってもカルコーヴェンだけが来ていない。クルネリッチが慌てて電話し、そのモーニングコールで起きたカルコーヴェン。

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待っている間に協議会の木下氏と荒澤氏が、開催予定コースをクルネリッチに解説し、結局9時30分にカルコーヴェンがホールへ。急いでバスに乗って出発し、車内から開催予定コースを視察する。

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二日目もこれまた快晴で、雪に朝日が反射して眩しい。「道幅は十分だし、観客席もおけそうだ。駅も近いから、駐車場もいらないだろう」とカルコーヴェンもご機嫌で、小樽博物館へと移動する。

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館長さん直々の案内で、20分ほど博物館を視察。その後木下氏の案内で小樽名物の運河を見学し、市役所へと移動した。予定どおり午前11時より山田勝磨市長と会談。

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市長がこれまでの経緯を説明し、「今回のみなさんの来日を機に、市民への理解をさらに深めたい」と語る一方、事前に小樽市の除雪費用が今年の大雪で20億円にも達し、市の財政を大きく圧迫していると聞いていたカルコーヴェンは、「オーストラリアのレースの経済効果は60億円にもなります。3年分はだいじょうぶですね」と切り出し、このひとことが議員も含め、集まった地元メディアにもおおウケした。

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さらにカルコーヴェンはチャンプ・カーがアメリカをはじめ、世界中に放映されることや、長年ストリートコースでレースを行ってきたそのノウハウ、安全性などをアピールし、30分の会談はあっという間に終了。最後に記念撮影となった。会見を終えた市長は、「ぜひ夢の実現に向かって、これから超えなきゃいけない壁を乗り越えたいですよね。一番重要なのは市民合意で、関係官庁の合意も不可欠です。まだまだ壁はたくさんあるんですが、プロジェクトチームが議論しながら頑張ってます。もっともっと市民にアピールして、理解を求めていきたいですね」と笑顔でコメント。次回の会見は、開催に向けての具体的な話となるのかもしれない。いったいその日はいつになるのだろう。

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無事に午前中のスケジュールをこなした一行は、そばとうどんで昼食。ほんとうに日本食が好きなようで、器用に箸を使っている。

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なかなかカルコーヴェンが出てこないと思ったら、自分だけちゃっかりとお土産を購入。外はマイナス7度ぐらいだったが、コロラドに別荘を持つカルコーヴェンはスキーも好きらしく、雪の上でも慣れた様子だ。再びバスに乗って小樽の駅前を通ったのだが、風に舞った雪が太陽光反射してきれいだった。講演会の会場となる小樽グランドホテルへ。

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平日、木曜日の午後1時だというのに、会場には100人も来場。メディアも大勢いて、にぎやかな講演会となった。

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まずはカルコーヴェンの挨拶に始まり、クルネリッチが用意した日本語のプロモーションDVDを披露。創世記のヒストリックなモノクロのレース映像に始まり、歴代チャンピオンの紹介や、ポール・ニューマンのインタビューなどが続く。ニューマンの他にも、観戦に訪れたトム・クルーズやポール・マッカートニーなどの有名人らが次々と映像で紹介され、レースに興味のない人でも、この点ではかなり印象づけることができたかもしれない。

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続いてカルコーヴェンがチャンプ・カーの魅力を存分に語り、クルネリッチが日本での開催がチャンプ・カーにとっていかに重要かをアピール。二人は市長に説明した時と同様、その経済効果や安全性に関してもしっかりと説明する。また、僕は日本とチャンプ・カーのこれまでのヒストリーと、オーストラリア視察の際のビデオで、市街地コースがどうやって設営されるのかを解説させていただいた。その後質疑応答へと入り、地元新聞社や、市民の方から様々な質問が寄せられる。中には主婦の方もいて、「夢のような話なんですが、4年に一度とか、やっていただけるんでしょうか」といった質問も登場。カルコーヴェンは「通常は最初に3年間の契約をします。毎年やったほうが楽しいですよね」と丁寧に答えていた。

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講演は約2時間ほどで終了。やっと大きな山を越えてひと段落と思いきや、到着時間の入国審査の関係で、急遽フライト時間を2時間早めることに。わざわざ東京から来ていただいた共同通信社の記者さんにもバスに乗ってもらい、カルコーヴェンは独占インタビューを受けながら最後の目的地、協議会のひとりが経営する造り酒屋さんへ。すべての仕事を終えたカルコーヴェンは、目を輝かせながらできたてのお酒をいただき、「グレイト!」と満面の笑み。お酒ができる工程を熱心に見、その解説に真剣な表情で聞き入っていた。その後お土産コーナーで彼がどのぐらい購入したのか、ここではナイショにしておこう。

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一行は無事に千歳空港に到着し、午後5時30分にアメリカのサンノゼへ向けて飛び立った。あっという間の22時間の滞在だったが、全員が「来て良かった」と言い、「ぜひとも小樽で実現したい」とカルコーヴェンはかなり気にいった様子。「ポール(ニューマン)はもう80歳でよぼよぼだから、早く連れてこないと!」と笑えないジョークまで飛ばす。御付きのひとりである金庫番にとっては初めての日本だったようだが、「この場所には投資の価値がある」とカルコーヴェンに言っていたのも聞き逃さなかった。
日本で初めて公道レースを実現したい小樽と、日本での復帰レースをストリートで開催したいチャンプ・カー。今回、求め合うものどうしが初めて出会うことになり、大きな前進を遂げることになったのは事実だが、市長が言うとおり、まだまだ難関は多い。協議会の理事長である木下氏は言う。「内閣府の地域再生計画で認められたからといって、警察が許可してくれるわけでは無いんですよ。この5月末に、まずは電気自動車のレースから始めようとしてたんですが、もう何度警察に足を運んだか。『公共性や広域性を』と言われるものの、彼らは具体的に『どうしろ』とは何も言ってくれないんです。結局、地域住民もそうですが、運送、運輸、バス、タクシー、地域の会社など、すべての承諾をとってこないとだめだということなんですね」
日本でなぜ公道レースが実現できなかったのか、その大きな理由のひとつが警察だと言われてきたが、それは小樽にとっても同じだった。カルコーヴェンは気軽に、「警察のトップをロング・ビーチに招待しよう!」というが、他の関係者から聞く話によると、彼らはみな「前例にはなりたくない」と言っているのだそうだ。つまり、自分の任期の間に許可した場合、万が一、事故が起きたら自分の責任になるということ。出世に響くようなことはしたくない、いわゆる「事なかれ主義」というやつである。こんなことではいつになっても公道レースなど、実現するわけがない。
この点を一流のビジネスマンでもあるカルコーヴェンらに説明するのが、最も難しかった。もちろん、最初からオーストラリアのように60億もの経済効果を得られるわけではない。だがそれに近いポテンシャルを十分に秘めているにも関わらず、日本のシステムはそれを台無しにしている。我々は今回、例年にない大雪に遭遇して市の財政が圧迫されている小樽を目の当たりにした。市長にカルコーヴェンが「除雪の費用が助かる」言ったことはまさに正論であり、「それをなんで警察が邪魔するんだ?」となるのは当然のこと。
公道レースが実現した場合、街や人々がどのような利益を得られるのか。4月に協議会のみなさんは、開幕戦ロングビーチの視察に行くという。30年以上に渡って市民と警察が協力し合い、ともに喜ぶ姿をぜひその目で見ていただきたい。
Text & Photo: Kazuki Saito