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2017 Honda Racing Thanks Day Photo Gallery / コラム:悲運のオーバルから、栄光のオーバルへ。奇跡の大逆転!

第101回インディ500を制した佐藤琢磨&ホンダ・ダラーラDW12の日本凱旋ランが実現した12月3日のホンダ・レーシング・サンクスデー。日本初走行となるDW12はシーズン終了後、勝利した時と同じインディアナポリス・モーター・スピードウェイ仕様に戻された実車そのものでした。
 
エンジンも日本で初めて火が入るV6ツイン・ターボ(インディ・ジャパン・ファイナル時はNAのV8)で、勝った時と同じエンジンを搭載。この走行のためにHPDやアンドレッティ・オートスポーツからもクルーが来日し、2010年のインディ・ジャパン以来、久しぶりにインディカーがツインリンクもてぎのオーバルを駆け抜けました。
 
また、これまでアメリカから一度も出たことがなかった、ボルグワーナー・トロフィーも日本で初披露。歴代ウィナーの彫刻が入ったインディ500の象徴のひとつであり、4億円の価値があるといわれる銀製の巨大なトロフィーの迫力と輝きに、多くの日本のモータースポーツ・ファンが目を奪われたことでしょう。
 
25年にわたって兄弟でインディカーを撮影してきた斉藤和記と広之にとっても、日本人のインディ500勝利はまさに夢がかなった瞬間でした。二人が撮った日本凱旋ランのフォトギャラリーと、ツインリンクもてぎの誕生から20年にわたって見続けてきた斉藤和記のコラムをご覧ください!(写真は画面をクリックすると拡大します)
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
インディカー写真
 
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インディカー写真
 
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インディカー写真
 
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インディカー写真
  
 
 
・悲運のオーバルから、栄光のオーバルへ。奇跡の大逆転!
 
今年20周年を迎えたツインリンクもてぎで、1998 年から14年間にわたって続けられてきた日本での開催。ファイナルとなった2011年は東日本大震災で地盤が下がってオーバルに段差が生じ、急遽ロードコースでのレースとなったことから、ファンは最後のオーバル・レースを見届けることができませんでした。思いがけず前年が最後のオーバルとなってしまったのです。
 
今回、それ以来となるインディカーのオーバル走行が実現したものの、やはりまともに走れるようなコース・コンディションではなく、しかもインディ500仕様のエアロやギア比での走行でした。そのような状況でも佐藤琢磨はフロアを路面に擦って火花が飛ぶほど、限界近くまでスピードをアップ。久しぶりにインディカーならではの走りが披露され、見納めることができなかったファンもやっと胸をなでおろしたのではないでしょうか。
 
その様子を僕はオーバルの外側で撮影しながら見ていたのですが、なぜかツインリンクもてぎが完成する前に見た光景、山を切り崩して重機が平らにしている様子が頭の中に浮かんできました。やがてページをめくるように、この20年の間にあった様々な出来事がフラッシュバック。日本のインディカー・レースが辿らざるを得なかった様々な不運を、思い出していたのです。
 
 
1990年代中盤に入り、着々とツインリンクもてぎの工事が進んでいく中で、一方のインディカー・シリーズのほうは最悪の状況にありました。それまでシリーズを運営していたCARTに決別し、インディ500を主催していたインディアナポリス・モーター・スピードウェイによるオーバル・シリーズのIRLが1996年にスタート。CARTに参戦していたホンダはインディ500に出ることがかなわなくなり、当然のことながら日本のレースもCARTの一戦となることが決まりました。
 
1996年秋に日本で開催発表を行った時は「CARTインディカー・ワールド・シリーズ日本開催!」だったものが、その後名称の権利関係によって「インディカー」が使えなくなってしまい、日本でのプロモーション活動が大混乱に陥ったのは言うまでもありません。CART側は全米選手権に由来するチャンピオンシップ・カー=チャンプカーを使うようにと要請してきたのですが、「え、なにそれ?」という感じです。
 
それでもいざ日本でレースが始まると、そのスピードとレース展開にファンは魅了され、観客はどんどん増えていきました。ところがアメリカではインディ500を失ったCARTから年を追うごとに有力チームやスポンサーが離れ始め、やがてホンダとトヨタも2003年からIRLへ移ることを決定。日本のレースも5年間開催していたCARTから、IRLに変わることが決まりました。
 
やっと「インディカー」と呼べるレースが開催されることになったものの、分裂状態はまだ続いていて、アメリカ最高峰のオープン・ホイール・レースのシリーズとは呼べない状態でした。ファンはそんな状況に疲れ果ててしまい、スポンサーも離れるといった悪循環が続いた中、2008年の開幕直前になってシリーズが突然統合します。前年にサブプライムローン問題が発生していたこともあり、もはや限界だったのです。
 
12年にも及んだ分裂劇に終止符が打たれ、ついに悲願のシリーズ一本化が実現したのですが、サブプライムローン問題は悪化するばかりで、9月にはとうとうリーマン・ブラザースが経営破綻。世界経済が大混乱に陥った中でホンダはF1から撤退することを決めただけでなく、経営陣は一度も黒字になったことがなかったインディ・ジャパンも休止する決断を下します。2012年以降の契約更新には至らず、14年続いた日本開催は幕を閉じることになりました。
 
こうして振り返ると、ホンダは実に最悪のタイミングでオーバルを作ってしまい、厳しい状況の中でレースを継続。まさに時代の波に翻弄され続けてきたとしか、言いようがありません。不運はそれだけでなく、巨費を投じてオーバルを作り、シリーズを誘致したにもかかわらず、渇望していた地元での勝利になかなかたどり着けませんでした。アメリカでは何度も優勝し、数多くのタイトルを獲得していながら日本ではトヨタに先を越されてしまい、2004年まで一度も勝てなかったのです。
 
また、今回の凱旋ランも多くのスタッフが心配していたように、オーバルは雨という自然のリスクがつきもので、かつて予選が中止したり決勝が順延となったことがありました。前日に降った豪雨により、路面から水が湧き出る問題が発生した年もあり、晴れているにもかかわらずレースは翌日に延期。中には事態が呑み込めずに怒りを露わにする観客もいたそうで、その対応にあたったスタッフのみなさんは、仕事とはいえさぞ辛かったことと思います。
 
そしてインディ・ジャパン・ファイナルではまさかの地震でオーバルが使えなくなってしまったのですから、最後のさいごまで不運につきまとわれていたと言えるでしょう。やがてオーバルは駐車場と化し、ターン1から2にかけての観客席はあっという間に草で覆われるなど、その姿に胸が締め付けられたファンも多かったと思います。それはまさに、悲運のオーバルと言えるものでした。
 
しかし悪いことばかりではなく、佐藤琢磨がF1の次のステップとして、日本でレースが開催されていたインディカーを目指すのは自然な流れと言えるものでした。彼にとって日本のファンの前で走ることは極めて重要で、実際にデビューした2010年のインディ・ジャパンでは多くのファンがツインリンクもてぎに集結。それまでとは異なる光景が広がっていました。
 
残念なことにそれもわずか2年で終わってしまうのですが、佐藤琢磨はインディカーに挑戦し続けました。8年目の挑戦でみごとインディ500を制し、7年という歳月を経てツインリンクもてぎのオーバルに凱旋。いったい誰がこのようなシーンを想像できたでしょう。日本人のインディ500チャンピオンが、ともに勝利したインディカーで自国のオーバルを走ったのです。
 
かつてレースが行われていた時とはまったく異なるコンディションだったにもかかわらず、佐藤琢磨はインディ500のウィナーらしい堂々たる走りを見せてくれました。グランドスタンドを埋め尽くした観客は世界一のオーバル・チャンピオンの走りに魅了され、走り終えてスピンターンを披露した佐藤琢磨にいつまでも手を振り続けています。澄みきった冬の光の中に白いタイヤスモークが漂い、オーバルは眩いほどきらきらと輝いていました。
 
日本にオーバルがあって良かったと思うと同時に、ツインリンクもてぎを作り、悪戦苦闘しながら開催を続けてきた人たちの顔が思い浮かんできます。レースを継続することは叶わなかったものの、自分たちが携わってきたオーバルが、こうしてインディ500の日本人ウィナー誕生につながったのは紛れもない事実であり、佐藤琢磨の凱旋ランが実現したこの日、それまでの苦労がやっと報われたと言えるのかもしれません。
 
会場には元ホンダのCARTプロジェクト・リーダーで、HPDの副社長だった朝香充弘さんが来ていました。ホンダでインディカーを始めた張本人であり、日本人の初優勝を夢見てきた一人で、佐藤琢磨とともに満面の笑みを浮かべながらボルグワーナー・トロフィーとの記念撮影に臨んでいました。佐藤琢磨のインディ500優勝、それはホンダやツインリンクもてぎでインディカーのレースに関わった人たちにとっても、夢がかなった瞬間でした。
 
ツインリンクもてぎ完成からわずか20年で、日本人のインディ500ウィナーが誕生しました。悲運のオーバルから、栄光のオーバルへ。それはまさに、奇跡の大逆転でもあったのです(斉藤和記)
 
インディカー写真
 
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